遠い
灰色の眉の下の、濁った灰色の瞳で、老人はマータを見据えたと思ったら、矢継ぎ早に問いかける。
「わりゃ、西部の出け?ほたら‥」
言葉のなまりが強まって、マータはとっさに聞き取れなくなった。慌てて老人の言葉を遮る。
「違う、違います、ゲオルゲスの詩が好きで、よく読んだので」
老人が言葉を切った。マータは言い募る。
「私はもっと内陸の、マージェレと言うところから来ました」
「へえ、なんぞいや、そうかいな」
老人はしみじみと言った。
「わし等の若い時分は、ゲオルゲスはまあ、発禁本みたいな扱いやったかいになあ、地のもんくらいしか知らへなんだが、今は良うなったこっちゃ」
「学校で習いましたよ」
ゲオルゲスは封建時代の詩人で、政治的な理由で評価はいろいろと変わったが、マータの学生時代には、代表作が教科書に掲載されていた。マータが引用した詩はそれではなく、彼が故郷の西部の風景を詠んだ小品だ。
「いや、わしゃ嬉しわ。今の若いもんで、古い詩を気に入って読んでくれてんは、まあ無いで」
老人は歩き出しながら、話を続けた。彼にとってはゲオルゲスは地元の偉人で、誇りなのだろう。
「もしかして、姉さん、学者さんけ?詩の研究なとしとってん?」
「いえ、まさか」
マータは苦笑いした。地下鉄に向かう入り口をくぐる。
「お勤め人でも、若奥さんでも無さげなが」
「あはは、わかります?実は、仕事がなくなったところです」
冗談めかして答える。
「さよけ。まあ左様な事もあらあな」
老人は自動販売機に向かった。初めてなのでまごつくのではないかと、マータは気になって横で見ていたが、老人は表示わかりづらいと文句をいいながらも、何とか独力で市内乗り放題の切符を購入した。そしてマータに向き直ると、
「ほたら姉さん、良かったら昼なと奢らして貰おやないけ」
左手で杖を突きながら、右手を胸に当てて、老人は意外に優雅な会釈をした。
「え、いや、そんなつもりでは」
「なんぞ予定でもあってんけ?」
「ええ、晩にはマージェレに帰るので」
「せやったら時間余裕や無いけ。どうせどこぞで昼食わんならんねんや、奢られとかんかい」
老人はマータの腕のあたりをポンとたたいて、にやりとして見せた。
「ルッセントラの駅の際に、知っとう肴屋があんねや。ほらうまいで、鮪でも鯖でも。あんたら、川魚しか食うたこと無いねんろ。勉強や。ついてき」
「内陸でも今は鮪も鯖も食べますよ」
マータは抗議しかけたが、なんとなくこの老人が気に入って、
「じゃあ連れて行っていただきますが、自分の分は自分で出します」
と宣言した。
「今ごろの女子衆なな」
老人は無理強いせずに、マータと軽く握手すると、二人で地下へ下りるエスカレータに乗り込んだ。
高速路線と一般の地下鉄が交差する駅で乗り換えて、そこからは老人はよく知っているらしく、心なしか早足になって、マータをなじみの魚料理店まで案内した。昼とはいえ、雨模様の日なので、もう看板に黄色い電灯がともされて、灰色の石造りの店構えに暖かな雰囲気をかもし出している。
濃い緑のクロスのかかったテーブル席に老人とマータは向かい合って腰を下ろした。二人とも「今日のランチ」を注文すると、老人は追加で白ワインとカルパッチョを命じてから、マータに向かって、
「まだ名乗ってなかったのう。わしゃパウロ・ゲオルギいうんや」
と話しかけた。
「もしかして、ゲオルギスと関係が?あ、あ、子孫の方?」
「ゲオルギスは子供おらなんだいう話でな」
「あ、そうだったかも」
「まあ西部は狭いかいに、どこぞで血がつながっとうかもしれん。で、姉さんはなんていうんけ」
「失礼しました。私はマータ、マータ・ヨネスク」
「よろしく」
改めて、ゲオルギ老人とマータは握手をした。
「ゲオルギさんは、西部のどちらにお住まいなんですか」
「テラスーラ。フェリーで半日や」
西部の中心より南のほうだと思う。
「遠いですね。列車だったらもっと早いんでしょう」
「そっちから来る折もあるけどな。駅まで車で二時間、汽車乗って、あんたのマージェレまで五時間、そっから首都までもう二、三時間やからなあ。フェリーで寝てくるほうが体が楽や」
「汽車でも10時間か。大変です」
白ワインがデカンタで出る。マータとゲオルギ氏は杯を掲げた。
「苦味が全然ない、ほんのり甘くて飲みやすい」
マータが素朴すぎる感想を口に出すとと、ゲオルギ氏は苦笑いした。
「西部のワインやで、贔屓にしたってや。カルパッチョはどない?」
「生魚、ですよね」
内陸で育ったため、生魚には抵抗があったマータだが、意を決して一切れ飲み込んだ。オリーブオイルと酢の風味で、魚の臭みが気にならない。
「全然おいしいと思います」
ワインで勢いをつけてから、もう一切れ味わった。噛むと魚の味が出てくる。でもそれがどうなのか理解する前に食べ終わってしまう。もう少し食べてみないと。
「うまいやろ」
ゲオルゲ老人は心底うれしそうに笑った。




