つらい
マータはベッドのうえで、膝をかかえて、ケイレブへの思いについて振り返ってみた。マータが意識している限りでは、ケイレブを好きになったのは、故郷のマージェレに帰りたいという願いとは関係なかったはずだ。たしかに彼は土地っ子で、家業の跡を継ぐだろうから、マージェレから出て行くことはないはずだけれど。何かの事情で、ケイレブが外国で働くとしたら。
『マータ、よかったら(そう、ケイレブはこういう思いやりをこめて話すのだ)、俺と結婚してベオグラード(だかトリエステだか、どこでもいいけど)に来てくれない?』
そう誘われたら、どうだろう。
『はい喜んで!あなたとならばマージェレを離れても構いません!』
と、答えることができるだろうか。しばらく沈思黙考してみたが、何しろ設定が現実離れしすぎていて、
『やだ、ちょっといきなり結婚なんて、無理だよ、お互いのことまだよく知らないし』
みたいなところに引っかかるだけだ。じゃあ逆に、マージェレには居られるけどケイレブとは親しくなれないのは?あ、でもそれって、今の状況じゃない。これはこれで、悲しいなあ。つまりあれだ、マータがマージェレを離れれば、間をとってケイレブと親しくなる日が来るんじゃない?マータの思考は奇妙な論理的飛躍をしたかと思うと、そのまま睡眠へとなだれ込んでしまった。
次にマータの意識が戻ってきたのは、いつものようにアンドレ・マロの魘される気配がしたときだった。目をこすりながら廊下に出ると、いつもとは違ってうっすらと明るい。もう夜明けだ。
「マロさん、起きて」
マータがマロの寝室のドアをノックすると
「ああ?」
と返事があった。これだけで夢から覚めたのなら、なかなかの効果だ。マータは欠伸をかみ殺して続ける。
「マロさん、大丈夫?夢見た?」
「うん、なんとか、起きたよ」
部屋の中の声がドアに近づいてきて、マロが扉を自分で開いた。
「ありがとう、もう朝かな」
額をこすりながら尋ねる。
「うーん、夜明け。もう一回、寝ます?」
「えっと、いや、起きてしまおうかな。あなたは休んでくれたらいい」
「起きるんだったら、コーヒーでも淹れるけど」
「そうだねえ」
言いながらマロは部屋から出てドアを閉めた。
「コーヒーは今はいいよ。もう少しお休み」
マータは目をこすりながら
「じゃあごめん、ちょっと寝るね」
とつぶやいて、自分の部屋に戻った。スマートフォンのアラームをセットして1時間半だけ眠る。起きてみると、マロはリビングに腰をおろしてテレビの画面を眺めていた。
「おはようございます」
と声をかけると
「ああ、おはよう。よく眠れた?」
と答えながら、マロは首をかしげた。
「どうかした?」
「いや、あなたとこうして挨拶するのは、初めてのような気がする」
「そうだったっけ?まあ、毎朝ばたばたしていたもんね。朝ごはん作るよ」
「お願いするよ」
今朝は手伝うつもりはないらしい。マータは卵を両面焼きにしようとして失敗し、嫌になって片面をよく焼いてからマロを呼んだ。マロは文句も言わずに食事を終えると、
「後片付けは私がやるから、支度をするといい」
と言い出した。
「ありがとう」
マータは素直にマロの言葉にしたがって、着替えて少し化粧をした。ベッドからシーツやカヴァーをを外して片付けて、簡単に掃除をする。干していた洗濯物や、浴室に置いた化粧道具を忘れないように荷物につめる。『お昼までに帰る』とミリアにメッセージを送って、部屋を出た。
「マロさん、そろそろ帰るね」
マロは台所にいたが、ゆっくりと振り向いてマータに向かい合った。
「あなたには本当に感謝している」
「大げさだよ」
マータは先日と同じように差し出された手を握った。
「私のほうこそ、マロさんに迷惑をかけたことを謝らないといけないのに」
「そのことは気にしなくていい。一人で立ち向かうことじゃなかったんだから」
マロは握手した手を離して、マータの顔を見た。
「じゃね。困ったことがあったらメールしてよ」
とマータが言うと、穏やかに笑って
「そういうことがないように願いたいね」
と答えた。
父のアパルトマンを後にして、マータは地下鉄の駅まで歩いた。雨が降りそうだ。電車が遅れないといいけど。切符を買おうとして、不意に、このままマージェレに帰るのはよそう、と思いついた。反対向きの地下鉄で2駅いくと、去年に開通したばかりの高速路線に乗り継ぎできる。地下鉄と電車を乗り継いだら、大回りの路線となってターエストから首都まで2時間以上かかるけれど、高速路線経由なら1時間弱だ。ただし、特急料金がかかる。それでも、今から首都を見たい。マージェレに帰るのが何時になるかわからないけど、ミリアはきっと気にしないだろう。
マータは逆向きの地下鉄を待ちながら、『ちょっと首都に寄る。夜帰る。』
とミリアにメッセージを送った。折り返し、ケイレブとミリアの寄り添った笑顔の写真が届いて、マータの心臓を抉る。やっぱりマージェレに帰るのは、つらい。




