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悔しい

「どれくらい焼くのが好きなのかな?」


アンドレ・マロが卵の焼き加減をマータに尋ねた。


「私は、どうでもいいよ」


と、マータが答えると、マロは肩をすくめて、目玉焼きを裏返した。


「両面焼きなんだ」


「ターン・オーバー・ハードとアメリカでは呼んでいる」


「そうなの」


 パンと、マロの焼いた卵と、ジャガイモのスープがテーブルに並ぶ。卵は良く焼けて、黄身が胸につかえた。コーヒーをしっかり飲んで、腹ごしらえは万全になったが、マータの気持ちは晴れなかった。マータが仕事を請け負っているヨナスの会社にまずは報告の電話をしなくてはならない。

 

 父は忙しくしているだろうから、電話よりメールを書いたほうがいいだろう。ヨナスの医者代と、ホテルへの謝罪金をマロが立て替えてくれることになっているし、父の会社の役員に迷惑をかけていることはさっさと報告しないとまずい。難儀なことになったと、怒られるだろうが、それでも父ならばマータの立場に、ある程度理解を示してくれるに違いない。


 しかし、出版社のほうはどうなることだろう。表立っては何も無いだろうが、マータを社員に採用するという話はヨナスが裁量して、きっとお流れになるだろうし、今の請負の仕事だって上司はヨナスなのだから、どこかで切られるだろう。マータとしても今後ヨナスと仕事が出来る気がしない。ただし、現在何件か請負仕事を掛け持ちしているが、ヨナスのいる出版社が一番格上で、ここの仕事を切られたというのは、きっとマータの評判にかかわってくる。


 今ですらミリアとルームシェアしている家賃を支払うのに苦心しているほどで、これからどうしていこう。朝食の皿を流しに下げながら、マータはため息をついた。


「後は私がやったほうがいいかな?」


マロが尋ねた。マータは首を振って拒絶を示す。


「ううん、自分でやる」


マロがマータの様子を見ているのを感じるが、目をあわせずに水道の蛇口をひねった。


「では、おまかせするよ」


 マロが穏やかに答えて台所を出ていくと、マータはのろのろと洗い物を始めた。すこしでも未来を先送りしたくて、丁寧に皿を洗ってみても、じきに朝食の片付けぐらい終わってしまう。台所にパソコンを広げて、父に事態を説明する文書を書いているうちに、出版社の始業時間がきた。管理部門へ電話して、ヨナスが昨夜、転んで脳震盪を起こしたと伝える。


 電話に出た管理部門の女性は、最初は迷惑そうだったが、ヨナスが怪我をしたのがターエストのホテル・イリリアだとマータが告げると、急に声を低めて問いかけてきた。


「え、ホテルで倒れたって、ねえ、あなたと一緒に?」


「酔われて、バーのカウンターに頭をぶつけられたみたいで」


「バーでなの?やだ、みっともない。でもほら、部屋とってたんでしょ」


「ヨナスさんは出張と伺いましたよ。私は実家がターエストなので、夕食だけご一緒したんです」


「へえ、ヨネスク、外注社員の人ね、そうなんだ、事情は承知しました、では報告しておきます」


最後だけは固い口調に戻って電話が切られた。なんだか、事情を勘ぐられているみたいで、不愉快。マータはスマートフォンをテーブルに投げ出した。


 父にはありのままの事態を説明するメールを書いて、マロに迷惑をかけたことを告げておく。一緒に請負の仕事をしているバルトにも知らせるべきか、ということが気になった。マータが採用されない場合はきっとバルトに声がかかるだろう。ヨナスとマータはお互いにおきたことを公にしないということで手を打ったわけだから、ヨナスに全てを話すのはフェアではない気がする。しかし何も告げないままに、マータが切られた事を知ったとしたら、さっきの管理部門の女性みたいに変に勘ぐられそうで、それも嫌だ。考えながら、面倒になってきて、マータはスマートフォンを取り上げると、バルトに電話をかけてしまった。


「ヨネスク、珍しいな」


バルトはすぐに電話に出た。


「今、電話、かまわない?あのね、出版社への採用の話、私は駄目になったから、一応報告するわ」


「え、駄目って?」


「詳しいことは言えないけど、ヨナス氏からの評価が地に落ちたの。請負の仕事もたぶん切られる」


バルトが何も答えないので、マータは


「じゃ、また」


と電話を切ろうとした。


「あ、ちょっと、それって、ヨナスが見返りを、その、求めて?」


バルトの途切れ途切れの懸念に


「ノーコメント」


と答えると、彼の呼吸が苦しげになったので、


「言っとくけど、心配されるようなことは無かったからね。会社で変なうわさになっても信じないでよ」


「うわさといえば、お前の前にいた女が、採用されたのは、ヨナスとどうこう、と言われていた」


「えぇ、そんなうわさあったんだ。教えてよ」


「いや、こんな話をきかされたら女性はいい気がしないと思ったんだ」


バルトはぐずぐずと言い訳する。


「いい気ってさ、知ってればもうちょっと距離を置くとか」


うかうかと出かけていって腕組んだりしないじゃん、とマータは悔しくなる。


「俺見たいのが、ヨナスのことを悪く言ってもやっかみとしか思われないだろう」


「あーもういいよ、じゃ、この話はここだけにしてよね。またね」


バルトの自分語りが始まりそうな気がして、マータは手早く電話を切った。


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