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 マータが泣きながらついた眠りはまた切れ切れで、電灯をともしたままの部屋で目覚めては、アンドレ・マロの様子を覗うことを繰り返した。マータが負担をかけたせいで、マロがまた怖い夢を見るのではないかという懸念のためだ。


 3度目には足音をしのばせて、マロの部屋の前まで赴いてしまったが、物音は聞こえなかった。部屋に戻って、うとうとしかけたところに、うなるような声が聞こえた。マロだ。


 マータは目をこすりながら、いつものように一応ノックしてマロの部屋の扉を開け、部屋の電灯をつけてしまう。マロは仰向けに寝ていたが、胸元を自分で掴んで苦しげな声を立てている。マータは慣れたもので、躊躇なく胸からマロの指を引きはがす、と、それだけで夢から覚めたようで、マータの視線の先でマロの目が開いた。


「マロさん、起きれたね、はい、もう大丈夫だよ」


真上から見下ろす体勢になっていることに気づいて、マータはあわてて身をひいた。


「あ、ああ」


悪夢から覚めるときに叫んだり暴れたりしないのは、いい傾向だ、と思う。しかしマロは身体を起こさずに、目の上に両腕を乗せて、深呼吸していて、ホテルの会議室での姿勢と同じだ、とマータの胸が痛んだ。


「お水、飲む?」


「ありがとう」


腕を頭のほうにずらして、目をのぞかせると、マロは片腕をのばしながら首をおこして、ミネラルウォーターのボトルを受け取った。掛け布の下で座りなおして、犬が水を払い落とすときのように、ぶるぶると首を振って、また大きく息をする。マータはいつものようにベッドの横にお尻を落としてすわった。


「いま3時半だよ」


そんな言葉をかけてみる。マロは水を少し飲んで、立てた膝と両腕の間に頭を埋めた。


「毎晩、毎晩、本当に‥」


「あー駄目だめ、それ以上言ったら。何回同じ話するのよ。別の話で、お願いします」


マロは、驚いた顔でマータを見た。もう一押しだ。


「今、悪いねって言おうとしたでしょう。わかるんだから。別の話をして。そうね、好きな女優とか」


マータの強引な話題転換に、マロは苦笑した。


「別に映画好きでもなんでもないから、好きな女優って言われても困る」


「じゃあマリリン・モンローとオードリー・ヘップバーンとどっちが好き?そのレベルなら答えられるでしょう?」


「たぶんどちらの映画も見たことない、かな。そうだねえ、<裏窓>ってヘップバーンかい?奇麗な人が出ていたけど」


「あなたの考えているのはキャサリン・ヘップバーンなんだと思う。でも<裏窓>はグレース・ケリーね」


「全くわからない、やっぱり<悪いね>だ」


マロはにやりと笑った。よかった、ちょっと気持ちがそれたみたい。マータが微笑み返すとマロは前に向き直って、水をもう少し飲んだ。マータもうつむいて、頭の中で話題の接ぎ穂を探していると、マロの掌が目の前に出された。


「手を、見せて」


マロの言葉に、マータは素直に自分の右手を預けた。マロの長い指のうえに乗せると、指の根元の太い寸詰まりのマータの手は余計に不細工に見えて嫌になる。マロは手をとったまま、親指でマータの甲の関節をそっとなぞった。


「怪我しなかったかい」


今日、ヨナスを殴った時のことだ、と思った。


「少し痛いけど」


「冷やしたほうがいいんじゃないかな」


「それほどじゃないわよ」


親指で触れられているだけなのに、妙に気恥ずかしくて、マータは手を引き抜いた。それを機に、


「もう眠れると思う」


とマロが言い、マータは立ちあがった。


「じゃ、お休みなさい」


マータの言葉に、マロは唇を結んでうなずき、軽く片手を上げた。どこかへ行く人みたい。


 その次にマータが目をさましたときは7時前だった。右手の痛みと共に、不安や情けなさがいっせいに目覚めてしまう。朝ごはんを食べなくては。玉葱を薄切りにして炒め、小さく切ったジャガイモと水と塩を追加して煮込んで、ジャガイモがつぶれたら牛乳、これでポタージュっぽくなるだろう。スープが出来あがる頃、マロが部屋から出てきた。寝起きのTシャツ姿だ。あの後眠れたのだろうか。しかしマロのほうから


「気分はどう?」


逆に尋ねられた。肩をすくめて答える。


「なんにせよ、まずは腹ごしらえね」


マロは、マータの表情を確認するように、ちらと目を配るが、他に答えられるようなことがない。唇をとがらせないように、力をこめて鍋をかき混ぜる。


「そういえば、卵を食べたいんだが」


マロの返事は意外だった。この人が何か食べたいというのは初めて聞いた。


「今、すぐ?」


驚いて間抜けな返事をしてしまったが、


「忙しいなら自分で焼くよ。目玉焼きなら私の得意料理だ。あなたも食べてみるかい?」


「え、それは、是非いただきたいわ」


マロにコンロを譲ってスープの鍋をテーブルの上に移し、フライパンだの卵を盛った鉢だのを渡すと、ベーコンを求められた。ベーコンを焼いて脂を出してから、目玉焼きを焼くらしい。


「卵を割らなくてはオムレツはできない」


とマロはフランス語の諺をつぶやいて、熱したフライパンに卵を割りいれた。


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