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止められない

 従業員用らしい狭いエレベータに乗り込むと、アンドレ・マロはマータの背中から手を離して、操作ボタンを押しながら、


「バーに顔だけ出して帰ろう」


と言った。事務室を出てからずっと、マロに支えられていたマータの背中が、今は心もとなくて、


「はい」


と答えるのがやっとだった。そのまま、マロの後についていき、バーに寄って、責任者に簡単に挨拶した。すでに何事も無かったように営業を再開しており、例の従業員は接客中だったので、マータに気づいて軽く合図してくれただけだった。タクシーで父の家まで戻るあいだ、二人はほとんど言葉を交わさなかった。このままでは良くない。


 家に入るとすぐに、マータは思い切ってマロの袖を引いて、


「今日は本当にありがとう。助けてくれて、あの、あなたがいてくれないと、きっときっと面倒なことになっていたと思う。ごめんなさい、体調が悪いのに、出てきてももらって」


と早口にお礼もお詫びもごちゃまぜに表明した。マロは首を後ろに少しそらして、唇を皮肉っぽく曲げたが、


「まあ、疲れた。けど、こうするしかなかったかな。女性一人で対処するべきことじゃない」


と答え、マータに手をほどかせて、リビングに腰をおろした。背もたれにひじをのせて話を続ける。


「私のことなら気に病まなくていい。別に忙しくもないんだから。それより、あなたは明日、なるべく早く会社へ報告するんだね。ありのままではなく、あの文書にかかれているとおりだよ。ヨネスクさんには本当の話でいいけど」


「ええ、わかったわ、それと、お金」


「ホテルから請求書が来てから相談するとヨネスクさんにお知らせしてくれ。あなたへの謝礼とはまた別のほうが手続きが簡単だ」


「それなら父に、そう言うけど」


「ほら、もう12時過ぎだ、まったく長い一日だったと思わないか。そろそろ休んだほうがいい」


マロは話題を変え、ネクタイを緩めた。


「うん、あの、遅いけど、寝る前にシャワー使っても構わない?」


シャワーの音が結構響くので、なるべく夜は使わないように気を遣っていたのだけれど、さすがに今日はさっぱりしてから寝たい。


「ああ、もちろん。ご自由に」


 できるだけ手早く髪を洗って、しっかりとジャージの上下を着終えたマータは、ドライヤーは自分の部屋でやることにして、濡れ髪をタオルで巻いて歯磨きをした。今日のことを考えてみれば、マータはヨナスに口説かれていたということになる。いつだって(ケイレブ以外の)男には隙を見せないように気をつけているつもりだが、うまくいかなかった。折角シャワーで流したのに、また熱い涙が出る。仕事はきっとなくなるだろうし、これからどうすればいいのか。ここから未来が全部消し飛んでしまったような気がする。マータは歯磨き粉を吐き出しながら、洗面台を掴んで、長いうめき声を出した。


「ヨネスクさん、具合悪いの?」


マロが廊下から、遠慮がちに声をかけてきた。耳ざとい。


「ううん、大丈夫」


そう答えるしかない。自分のせいだから。涙を押しぬぐって、台所に向かうと、マロが冷蔵庫の前にいて、


「水でもどう」


とミネラルウォーターのボトルを取り出してくれた。


「ありがとう」


受け取って、その場で蓋を開けて、ごくごく飲み下す。喉が渇いていたようで、勢いあまって、口の横から喉へ流れ、あわてて手の甲でせき止めた。マロが一瞬、息が詰まったような音をさせて横をむいた。マータがそちらを睨むと、マロは手で鼻のあたりを押えるようにして、さりげなく表情を隠していた。


「今、笑ったでしょう」


「あ、いや、そ、そうじゃなく、ごめん」


マロは目を泳がせて、半歩下がった。


「別にいいけど」


マータはボトルに口をつけて、もう少し飲み下す。マロもあわてたように、卓上にあった自分の飲みかけを口にした。ひとごこちついたマータはボトルに蓋をして、はれぼったい瞼と頬にあてた。


「あー、眠れそう、かな?」


マロが尋ねるので、


「いつもと反対だね」


とマータは泣き笑いで答えた。マロも目を伏せて少し笑い、冷蔵庫にもたれると足を組み替えた。ホテルの会議室で、マータの言葉にうんざりした様子を見せてから、ずっと内心でマータに腹を立てていると思ったけど、今は、少し気持ちがおさまって、もとのマロさんが帰ってきたみたいだ。あのとき、うまくいえなかったことを言葉にしてしまおう。


「マロさん、私が馬鹿で、男の人をうまくあしらえなかった事、ごめんなさい」


「あー」


マロは首の辺りを掻いて、すぐには答えなかったが、


「そこは私に謝ることではない、というか、私のほうこそ、大人げなかった。その程度であなたに怒鳴るべきじゃなかったよ。すまないが、いろいろ余裕がなくて」


と弁解した。マータはその言葉がうれしいのか悲しいのかも、もうよくわからなくなって、ただ涙がぶり返してきてぼたぼたあふれてくるので、髪に巻いていたタオルをはずして、ぬぐいながら嗚咽した。しばらく止められずにいると、濡れた髪にマロの手が触れて、


「寝たほうがいいよ」


とささやかれる。マータは泣きながらうなずき、自分の部屋に戻ると、ベッドに身を投げた。扉はきちんと閉じないままにした。














 

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