意識が無い
マータがその夜、半泣きになりながら、アンドレ・マロに電話したのは9時過ぎだった。
「マロさん、お願い、助けに来て、困ったことなってるの、私」
「何?ヨネスクさん?何だって?」
「ごめんなさい、迷惑でしょうけど、父がいないし、頼れる人いなくて、どうしよう」
「ちょっと、ちょっと、ねえ、落ち着いて、いったいどうしたの」
「上司を殴ったら、気絶して、死んじゃったら、私、そんなつもりじゃなかったのよ」
「あなたが上司を殴った?」
「そうよ!」
マータの声が高くなった。
「ああ、落ち着いて、いい?今、そこはどこかな」
「ホテル・イリリア、北駅の」
「ああ、そこか、うん、知っている。他に誰がいる?」
「バーの人と、さっき支配人が呼ばれたから、もう来ると思う」
「バーにいるんだね、それで、相手は、倒れたって?」
「うん、頭打って、動かさないようにって、言われて、目がさめないの」
「医者は?」
「近所のお医者さんを呼ぶって」
「じゃあね、私が今からそちらへ行くから。そこに居て、何かあったらすぐ電話して」
「ごめんなさい、私、ごめんなさい」
「とにかく落ち着いて、今は泣いてもしょうがないから。それと、こちらから掛けるかもしれないから、すぐ電話に出られるようにして」
マロは怒った声を出しているわけではないが、とんでもない迷惑を掛けていることに間違いはない。マータは恐る恐る尋ねた。
「あの、会社にかけたほうが、良くない?」
マロは一瞬考えてから、答えた。
「この時間だから、会社は後だ。私が行くまで待って。」
「うん、本当にごめんなさい。じゃあ、来てね?」
「30分はかかる。じゃあ」
切られたスマートフォンを握り締めて、マータはがくがく震えながら顔を上げた。ヨナスはバーのカウンターの足元にのびていて、さっき従業員がネクタイを緩めて脈をみてくれた。息はある。幸いなことに。マータはその枕元にぺたりと座り込んでいる。カウンターの上は花や照明できらきらしているのに、スツールの陰はうらぶれてまるで別世界だ。とんでもないところに来てしまった。
マータの電話の会話を耳にしたのか、バーの従業員は、
「お嬢さん、大丈夫だよ、あんたに殴られたくらいで、大の男が死んだりしないよ」
と慰めてくれた。
「あ、だといいけど、打ち所が悪くてとか、心配で」
マータは声を絞り出した。知らない人からの予期せぬ思いやりの言葉に、胸がつまる。周りではバーの従業員たちが、こぼれた酒や氷の始末をしてくれたし、医者を呼んだり、他のお客に頭を下げたりと動いてくれているが、倒れているヨナスに対しては、じっと様子を見ていることしかできない。そのうち、ヨナスのまぶたがぴくぴく動いて、マータは緊張した。
「い、いたた」
意識が、ヨナスの意識が、戻ってきたようだ。
「ヨナスさん!」
マータが呼びかけると、ヨナスはゆっくりと腕を挙げて頭を触ろうとした。良かった。生きてた。
「お客さん、気がついたかい」
バーの従業員も呼びかける。
「あー、畜生、ひどいことしやがる」
マータは畜生といわれてこんなにうれしかったことはない。
「頭ぶつけたんですよ、無理して動かないで」
「ヨネスク、お前?」
ヨナスがじりじりと身体を起こして、頭をさすっているところへ、ホテルの役職者らしき紳士が、くたびれたセーターを着た初老の医師を案内してきた。医師はその場で軽く診察すると、
「まあ、脳震盪だな。どこか診察できる部屋はないかね」
と尋ねた。
「動かしてよろしいですか」
ホテルの紳士は、性急に医師に尋ね、医師がうなずくのを見て、ヨナスに肩を貸して立たせた。さきほどのバーの従業員と力をあわせて、ホテルの事務室の応接コーナーへ連れて行った。ヨナスをソファーに寝かせて医師が診察を始めると、役職者はマータと、バーの従業員を別の会議室へいざなった。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
椅子を勧められて、座る前にマータが頭を下げると、役職者は
「なんにせよ、大事にはならなそうでよかった。とりあえず、何があったんです」
と、マータに厳しい目を向けた。
「彼は、職場の上司なんですが、その、酔って、触られたので、かっとなって殴ってしまったんです。その拍子に頭をぶつけて、床に倒れて」
「頭を?どこにですか?」
「バーのカウンターと思います」
「なるほど」
役職者はバーの従業員のほうを見た。彼もうなずいた。
「男性のお客様が、こちらのお嬢さんに馴れ馴れしくされておりましたが、えー、顎に一発入りました。それで、頭のほうがこうカウンターにぶつかって、ごつんというわけで、あわてて駆け寄りましたが、意識がないようで、すぐ人を呼びました」
役職者はマータに向き直って
「本日はご宿泊のご予定でしょうか?」
「いえ、私は違います。彼は泊まる予定でした」
そのとき役職者のスマートフォンが鳴ったらしい。マータに断って画面を確認すると、
「上の者に報告しますので、少々お待ちください」
と告げて、役職者は会議室を出て行った。マータはため息をついた。




