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熱っぽい

「じゃ、行ってきますよ」


 その日の夕方、ヘッドフォンをして目を閉じていたアンドレ・マロの肩を揺さぶってマータは強引に告げた。


「はい、気をつけて。遅くなるようなら電話してね」


目を開いたアンドレ・マロは、ヘッドフォンを外して穏やかに答えたが、その口調にはほんのりと皮肉がこもっているような気がして、少し腹立たしい。マータは首筋にかかる髪の毛をうるさそうに払いのけ、父の家を後にした。普段適当に束ねている髪は下ろして、前髪を頭の後ろでバレッタで留めた。ケイレブが来る飲み会ほど本気を出すつもりもないので、袖のあるブラウスだし、スカートも膝までの丈にした。それでも一応、スカートだし、パンプスも履いている。マロにほめて欲しかったわけではないが、まるっきり言及しないのって、どうなの?


 地下鉄に乗って窓ガラスに映った自分を見ながら、マータは唇を曲げた。まあ、性的に無理レベルだとそんなものなのかもしれない。ケイレブにとってマータはどうだったんだろう。何かでマータが胸元の大きく開いた服を着ていたら


「ちょっとそれドキッとした」


って言われたことがあった。ケイレブはおっぱい好きなのかと思って、谷間見せを意識して服を選んでいたのだが、マータより胸の薄いミリアと付き合う結果になったのだから、男心はさっぱりわからない。


 予想していたとおり、ヨナスは待ち合わせ時刻に遅れてきたが、上司に文句を言えるはずも無い。あたりさわりなく挨拶をすると、ヨナスは


「よう、その髪型、新鮮だな」


と、のっけからそつがない。


「ありがとうございます。たまにはこういうのもいいですね」


お世辞だとわかっていても、ほめられて悪い気はしない。


「じゃあ行くか。何か食べられない物があったりしないか」


「あまりないですね。おスシって言われたら困りますけど」


ヨナスは笑った。


「俺もスシは経験不足だな。じゃあフランス料理でいいか」


「どこかお薦めがありますか」


「ヨネスクは地元だから、知っているかもしれないが、パリで修行してきたシェフが開いた店がこの近くで、評判がいい」


「私はマージェレが長くて、ターエストには全然詳しくないんです」


ヨナスが歩き始めるのについていこうとすると、片腕を出された。夜明けに、マロが同じしぐさをしたことを思い出す。


「大人ならこういう場合、腕をとるものだ」


ヨナスがいう。マロの腕はしっかりと抱いてやらないといけない気がしたが、ヨナスにそんなことをするのはおかしいだろう。軽く腕を絡めてみて、


「こんな感じでしょうか」


尋ねてみると、ヨナスは嘆かわしいというように空いている手で額を押さえてみせた。


「初々しいもんだな。ヨネスク、君はもう25になってやしなかったかね」


「すみません。慣れてなくて」


「いや、可愛らしいね」


 パリ仕込みのフランスレストランと聞いて、マータは緊張したが、連れてこられたのは思いのほか気軽な店だった。ワインを飲みながら、ヨナスはマータのクーポン雑誌のレストラン紹介記事を何件か引き合いに出し、ワインリストから店を評価するポイントだの、内装と客層の描写をするならどうするだの、マータにとっては勉強になる話をしてくれる。野菜やハムを小奇麗に盛り付けた前菜にはじまり、濃厚に海の味のする貝のスープをマータは味わった。


「ターエストには詳しくないって言っていたが、実家がこちらなんだろう?」


ヨナスに聞かれて、マータはうなずいた。


「10年前にマージェレから引っ越してきたんですけど、私だけマージェレに戻ったんで、こちらにいた期間は短いんです」


「じゃあご両親が住んでおられるのか」


「母は亡くなって、父が独りです」


「そうか、お父さんも寂しいだろうな」


「父は仕事人間なんで、寂しがる暇も無く、元気に海外出張中ですよ」


ヨナスはワインを口に運んだ。今日電話したときに、母のことで冗談を言ったのでばつが悪いのだろうか。よくあることなので、気にしないでほしい。


「するとターエストには留守番に来ているのか」


「まあ、そうです」


マロのことなんかは説明するのも面倒だ。


 メインの羊の皿が下げられると、ヨナスは探りを入れるような質問をしてきた。


「君は、これからどんな仕事をしたいと思っている?」


マータは背筋を伸ばした。


「今はまだ実力がないですが、旅行ガイドを作れたらと思います。観光地の紹介だけじゃなく、歴史的背景を説明するような」


「なるほどな。うちなら確かにその手の仕事を持っている。君は真面目だし、努力家だ。」


やっぱり、採用の話になるんだ。


「実は社員が一人辞めることになってね。ああ、このチーズでワインを飲んで、片付けよう」


ちょうどボトルが空いた。


「あの、バルトにもその話は伝わっているんですか」


ヨナスは首を横に振った。


「彼には彼の長所がある。だがご存知の通りの口下手だ。つまり、どちらを選ぶかとなると、後は君にどれくらい熱意があるか、という話になるわけだ。コーヒーを飲んだら、場を変えて、ゆっくり話し合おう」


ヨナスは熱っぽい微笑を浮かべた。

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