蒸し返さない
電話に出てしまったら、時計の無いこの部屋では、時間がわからない。マータはあせった。
「すみません、遅刻しましたか?」
「何だ、寝ぼけているのか?もう昼だぞ」
いま昼?夕食の約束には遅れてないのか?そもそも何時に会うのかも決めていないというか、後で電話すると言われて、あ、これがその電話か。
「あ、すみません、ちょっと混乱して」
「暢気なもんだ。実家でお母さんに甘えているんだろ」
母はいませんと、答えるわけにも行かない。
「失礼しました。今日のお約束のことですね」
話題を変えてごまかそう。
「ああ、そうだ。6時に市場駅の改札でいいか」
「はい、大丈夫です」
地下鉄で20分くらいだろう。ここを5時すぎに出ればいい。それまでにマロの夕食を、って今日の朝昼は、寝過ごした?マロはおなかがすいても、マータを起こすのはきっと遠慮するだろうし、一人で何か食べただろうか?
「よし、ではよろしく」
ありがたいことに、ヨナスはあっさりと通話を終えてくれた。マータはスマートフォンをベッドに投げて台所へ急いだが、誰もいないし、食器を使った形跡もない。食べてないんだ。居間へ行ったが、そこにもマロの姿はない。どうしたんだろう。外へ何か食べに行ったのだろうか。居間の時計は12時10分を指している。マータは居間の入り口に立ちすくんだ。やらかしてしまった。マロの面倒を見る代わりにお金をもらう約束を、破ってしまった。あの寂しがりの人が、独りでほったらかされたと思って、沈み込んでいるのではないだろうか。罪悪感で胸がどきどきする。
そのとき、マロの部屋の扉が開く音がした。部屋にいた?
「マロさん!ごめん!寝過ごした!」
全力で謝りながら向き直ると、部屋から出てきたマロは、何度か見た寝起きの様子だった。
「やあ、お早う」
まぶたをこすりながら挨拶する。
「もしかして、今起きたの?」
マロはうなずいて、背中をそらして伸びをした。
「すごく寝たよ。10時ごろ一瞬起きたけど、すぐ二度寝した」
「よかった、私だけ寝坊したのかと思った」
マータは安心して、気が楽になった。
「よく眠れて何よりだけど、お腹すいたでしょう。朝ごはん、あ、もう昼ごはんか、支度するからちょっと待ってね」
「その間、シャワーを使ってもいいかな」
「どうぞどうぞ、ごゆっくり」
朝昼兼用ならスープを作ろうか、それともすぐ出来るほうがいいのか、迷いながら、玉葱をスライスしてホウレンソウとバターで炒めて、少しスープストックを注いで、温まったところへそっと卵を割り入れる。後は黄身が半熟になるまで蓋をして静かに加熱だ。コーヒーを淹れながらソーセージを焼いて、これで足りるだろうか?と首をひねっていると、髪が濡れたままのマロが台所に入ってきた。でもドレスシャツに着替えている。ミネラルウォーターを渡して、
「もう食べます?」
と尋ねると、うなずくので、急いでハムとチーズとパンを切った。マロは並べられたものを黙々と平らげてゆき、マータだって遠慮せずに食べたので、昨日買ってきたパンはあらかた食べつくしてしまった。二杯目のコーヒーをいれながら、
「結構食べたね。マロさんが晩に食べるパンを買ってこないと」
とつぶやくと、マロが顔を上げた。
「よかったら、私が買い物に行ってくるよ?あなたは出かける支度があるんだろう」
「いや、支度なんてそんなにかからないけど、洗濯したいし、あと煮物作りたいから、マロさんが自分で好きなパン買ってきてくれると助かるのは助かる。体調大丈夫?」
マロはうなずいた。
「マロさんの洗濯は?」
「私は昨日やったから、いらない。それと、パン以外に買ってくる物はある?」
「うーん、チーズとか?昨日大体買い物したから、あまり無いと思うけど」
「このへんでいいクリーニング屋はあるかな」
「スーパーの向こう側のほうがいい店多いよ。パンもワインも」
マロはマータから情報を聞きだすと、台所を出て行った。続けて髭を剃る音がする。マータが洗い物をしていると、玄関の扉を閉める気配がして、出かけて行ったらしい。マロがいない間に、シャワーを使ってしまおう。洗濯機もまわさないと。
シャワーをおえて洗濯物を干して、マロの夕食用に骨付きの鶏と人参とジャガイモを水から煮ながら、気になっていた水周りの掃除をする。浴槽に上半身をもぐらせるような姿勢で掃除をしていると
マロが帰ってきた物音がした。
「おかえりなさい。いいパン買えました?」
風呂場から顔を出して尋ねると、マロはちょっと足を止めた。
「ああ、掃除か、ありがとう、パンは台所に置くよ」
「こちらこそ、買い物助かったわ」
マロは軽くうなずいた。マータは掃除を続ける。そういえば二人とも夜明けの散歩については口に出していないし、今日は少しだけ距離が開いたような気がする。マロにとってはきっと触れたくない話題だったのだろう。マータはそこに立ち入らないように、あと数日、マロに心穏やかに過ごさせて、出て行くことを心がければいい。




