関係ない
アンドレ・マロの悪夢にマータが出てきたと言われてマータは面食らった。
「あなたの夢の中のことまで責任持てないよ」
マロは、額を握りこぶしで押さえたまま、
「すまない、もう少し聞いて欲しい。あなたがいてくれれば眠れると思ったんだが、そのあなたのことまで悪夢を見るようになってしまって、もう、どうしたらいいのか」
と、喉から言葉を押し出すように話した。それに対してどう答えたらいいのかわからず、マータは黙ってマロの頭のてっぺんの毛を眺めていた。マロは不安そうな瞳を上げてマータを見た。話の切れ目に、この人はよくこうやって見てくる。マータは、ぼんやりとそんなことを考えた。
「ヨネスクさん、その、聞いてもいいかな、つまり、私が気に病んでいるのは、あなたが上司と食事に出かけるということなんだと思う」
「はあ?何でそうなるわけ?」
「そういう夢を見た」
マロは、話しながら、またうつむいて、声が小さくなってゆく。
「私が仕事で出かけることが、なんで怖い夢になるのよ」
マータは反射的にそう聞き返したが、同時に、これはマロが知られたくない核心だったかもしれない、と感じて、ひやりとした。案の定マロは答えない。すこし会話の方向を変えたほうがいい。
「私の仕事はさせてくれる約束でしょ。遅くならないうちに戻るし」
「仕事‥」
マロの口から言葉がこぼれた。よし、こちらの方向だ。
「仕事。私の採用の話するんだから」
憶測だけど、確信をもっているかのように話して、マロを安心させよう。
「あのね、私今の会社の正社員じゃないの。外注で仕事してるのね。今度社員が一人辞めるらしくて、私ともう一人の外注とどちらか採用になるかもしれなくって、その辺の相談するわけ。社内ではしにくい話だし、私はしばらくターエストにいるし、上司がたまたまこちらに来る予定が合ったから、それだけだよ」
マータは話を続ける。
「マロさんがどんな夢みたのか知らないけど、それはマロさんの夢で、私とは関係ない。むしろ一緒にされるのが、言いがかりレベルだよ」
マータはさめたコーヒーをぐいっと飲み干す。マロは、額を押さえて、
「すまない、私はどうかしているんだろう。他人のあなたのプライベートまで気にするのは、まともではないと思う。たしかに、関係ない言いがかり、かもしれない」
とつぶやいた。口ではそういえたとしても、安心して眠れるという表情ではない。マータはもどかしくなった。
「ねえ、マロさん、眠れないから、頭の中が変なほうに行っちゃうんでしょう。思い切って、散歩でも行こうか。少し歩けば疲れて、眠れるかもよ」
「散歩、こんな時間に?」
「うん、もうすぐ夜明けだし、地下鉄も動き出す時間よ。それに二人なら怖いこともないでしょう。身体がつらいなら無理に勧めないけど」
「身体は、どうかな」
マロはぼんやりとテーブルの上を眺めた。
「じゃあ、30分ほどぶらぶらしようよ?Tシャツだと寒いから、服着替えてね」
マータは立ち上がってテーブルを回りマロの腕をつかんで立たせた。そのままマロの部屋にひっぱってゆくと、ドアを開けて
「はい、どうする?着替える?それとも寝る?」
マロは、ため息をつくと
「着替える」
と答えた。マータの手から腕を引き抜いて部屋に入る。マータも自室に戻り、ぺらぺらのジャージの上下の下に下着ととシャツを着こんで、いつもの上着を重ね着した。スマートフォンと小銭入れだけを上着のポケットに入れて、バッグはなし。マロはネクタイなしの黒っぽいスーツで部屋から出てきた。マータの想像したとおり、カジュアルウェアを持っていないのだろう。(Tシャツは例外だが)
二人でアパルトマンの下までエレベータで下りる。夜明けが近づいて、東の空は藤色になっていた。西には低く、半月でもなく、満月でもない、中途半端な月がかかっている。マータがその月を示すと、マロはそちらに向かってふらりと歩き始めた。すこし上り坂だ。人通りはほとんどないがどこかで車のエンジンをかける音がする。町は目覚めかけて、少しずつ街灯の明かりが力をうしなってゆく。
「マロさん、寒いの大丈夫?」
問いかけると、マロは立ち止まって、
「つらい」
とマータに向けて自分の片腕を示した。
「あなたが温めるべきだと思うよ」
マータはその腕に自分の腕をからめて、身体を寄せたかと思うと
「走れば暖かくなるよ」
というなり、マロを引っ張って走り出す。ただし、ほんの数十メートルで、息をきらして足を止めてしまった。マロの足が全然進まないからだ。
「体調が悪いんだ、無理させないでほしいね」
「疲れて眠れるようにしてあげているのに」
「歩くだけで充分だよ」
少しでも、マロから軽口が出てくるのがうれしい。マータはくすりと笑った。そのまま進むと車の通る大きな道路に突き当たったので、向きを変え、テラスハウスの並ぶ住宅地に入った。建物が低い分、空が白んでいるのがはっきりわかる。
「あなたは、面倒見がいいねえ」
マロは言い出した。




