わからない
夕食のときのアンドレ・マロの調子がよさそうだったので、その晩はよく寝てくれるのではないか、とマータは期待していたのだけれど、やはりマロの呻き声で目を覚ますことになった。スマートフォンを見ると、深夜一時前だ。
昨夜と同じように、マロの寝ている部屋を一応ノックしてから踏み込んで、電灯を点けると、寝たままうなっているマロを揺り起こす。
「マロさん、ねえ、起きて」
マロは意味不明の言葉を叫び、マータの手を払いのけた。目が覚めたようだ。ベッドの上で起き直り、Tシャツの胸元を押さえて、荒い息をつく。額に汗がにじんでいる。
「さっきのは、夢よ、夢。今はもう起きてる。はい、お水」
マータは声をかけながら、かがみこんでミネラルウォーターのボトルを渡した。マロは目をあわすことも出来ず、水を受け取ったまま握り締めている。
「お水飲んで。気分が変わるから」
「夢が」
マロは水を飲んだあとで、そのような言葉を発したが、しゃがれ声になった。咳払いすると、
「変な夢を、見た」
と言葉を押しだした。変な夢というのはずいぶん控えめな表現だ、とマータは思ったが
「どんな夢?あ、詮索したいわけじゃなくって、言葉にすると夢の勢いがなくなるっていうか、しおれて弱るのよ。だから、悪い夢は口に出しちゃったほうがいいの」
と、話を続けた。
「いや‥」
マロは、手の甲で額をこすった。
「あ、いいよ、無理しないで、別に言わなくていいから」
「その、さっきはすまない。ひどいことを言ってしまった」
「さっきって、起こしたとき?そんなの全然いいよ、何言ったかわからなかったし」
「うん‥」
しばらくマロはうつむいていたが、
「ありがとう、着替えてもう一度寝るよ」
とつぶやいた。
「あ、着替えね、着る服はある?うん、それなら、私も部屋に戻るね」
今日は今までで一番ひどい魘されようだった。そして、今日はマータが揺り起こした手を払いのけて、手を握って欲しいともいわなかった。まあ、そんなことより早く寝なおしたかったというのなら、それでいいのだ。まだ二時前だし、今すぐ寝れば朝までにまとまった休息がとれるだろう。逆に朝までに、もう一度くらい悪夢に襲われる時間的余裕があるともいえる。マータはまた起こされる覚悟で、わざわざ部屋の扉を開けてからベッドに入った。
物音がしたような気がして、マータが目を覚ましたのは4時過ぎだった。部屋を出てみたが、意外にしんとしている。気のせいだったのか、とも思ったが念のためマロの部屋の前までいってみようと歩き出すと、台所に電灯が点いていて、テーブルの前にマロが頭を垂れて座っていた。
「マロさん、寝てる?」
おそるおそる問いかけると
「いや」
マロが顔を上げた。斜め後ろから見ても憔悴して、虚ろになっているのがわかる。
「また夢見た?ごめん、起こしてあげられなかった」
「いや、あのまま眠れなくて」
「あ、そうなんだ」
困った。悪化しているみたいだ。マータはため息をつかないように、しっかり息を吸い込んでから、
「じゃ、とりあえずあったかい物飲もうよ。あれからずっと起きてるなら、身体冷えてるよ。ねえ、コーヒーは無理っぽい?紅茶にミルク入れるほうがいい?」
「どちらでも」
「んじゃコーヒー淹れるね。上に何か着る物ないの?」
「ああ、ない、と思う」
マータはコーヒーメーカーが動いている間に、戸棚から予備の薄手の毛布を持ってきて、Tシャツ姿のマロの肩にぐるりと巻きつけた。
「え」
「あったかくして」
牛乳を温めて、砂糖もいれたコーヒーをマロの前に突き出して手で受け取らせる。
「私ケーキ食べるけど、あなたはどうする?」
「いや、やめておく」
マータはスーパーで買ったフルーツケーキを分厚く切って、口に運んだ。生地がぼそぼそしてすぐ崩れ、時折砂糖漬けのフルーツが歯にくっつくが、甘いのがなによりだ。マロはコーヒーを啜っている。この人の気持ちをなごませるためにマータが出来そうなことは、他に何か無いだろうか。父ならば抱きしめることもできたし、気持ちを切り替えるような話題だって思いついたが。
マロは飲みさしでコーヒーカップを下ろすと
「あなたは、なにも尋ねないんだな」
とつぶやくように言った。
「聞いてるじゃん、コーヒー飲むの、上着はあるのって」
「そういうことじゃなく、なぜ私が眠れなくなったか、どうしてここにいる破目になったのかということだよ」
マータは肩をすくめる。
「何の夢か聞いたら機嫌損ねたくせに。大体、何も事情知らない私だから頼れるって言ってたでしょ。知らないままでいいです」
「じゃあ」
マロは言葉を継いだ。
「じゃあ、その、あなたは私の事情を知らないままで、フェアじゃないのかもしれないが、私が今、眠れないほど気に病んでいることを尋ねてもいいだろうか」
「私に尋ねるって?」
混乱するマータに
「今日の夢はあなたが出てきた」
とマロは沈鬱なおももちで告げた。




