折り目正しい
「今帰ったわよ」
マータは重い荷物を抱えて、父のアパートメントの扉を全身を使って押し開けた。振り向いて鍵を閉めているところに、アンドレ・マロが姿をみせた。いつもの白いシャツ姿だ。顔色は、悪くはなさそうだ。
「お帰り」
手を伸ばして足元の荷物をとりあげてくれる。
「ありがとう」
つい続けて、いい子にしてた?と尋ねてしまいそうになって、マータは急いで口を閉ざした。そのかわりに、荷物を台所へ運び込むマロのうしろからついてゆきながら
「お昼ごはんは足りた?」
と尋ねる。
「ああ、充分だった。買い物、すごいね。重かったろう」
「こんなの、日常よ。玉葱の買い置きがなくなりそうだったし、安かったし」
台所に荷物を下ろしたマロが振り向くので、
「あ、それ、着替えとか。自分で部屋に持っていくわ」
と、マージェレの家から持ってきたショルダーバッグを受け取った。マロは冷蔵庫を開けて、食料品を詰め込んでゆく。マータは自分の部屋から台所へ戻って、
「洗濯ありがとうね。あなたのシャツとか干してたのも、片付けてくれたのね」
「ああ。玉葱は冷蔵庫に入れないんだろう」
「そう、食料庫の、ここ、籠にいれて、風を通すの」
マータは台所を見回した。使った食器は洗ってあるし、食べ残しは冷蔵庫に入れてあるし、アンドレ・マロは本当にきちんとしている。ケイレブよりずっと。いや、ケイレブをほかの男なんかとと比較するべきではない。マータは、自分がケイレブの評価を下げていることに、胸の痛みを覚えた。
「ゆ、夕食の支度を、するから、音楽でも聞いててよ」
声が震えないように、気をつける。
「何か手伝おうか?あなたも疲れているだろう?」
「料理は独りでしたいの」
つっけんどんな言い方になって、マロが腹を立てたかもと、恐る恐る、様子をうかがったが、
「そうか、じゃあ、よろしく」
マロは穏やかに答えて台所を出て行った。本当によくできた人だ。きっとああしていつでも自分を抑えているせいで、「精神的に追い詰められた」状態になるのかもしてない。すこし気がとがめる。
豚肉の脂の少ないところに小麦粉をまぶして、オリーブオイルで焼く。ジャガイモと、いろいろな野菜を重ねて白ワインで蒸し焼きにする。その間にトマトとキュウリだけのサラダともいえないサラダをを作って、あとはパンと水。
「マロさん、ごはんできたけど、食べる?」
言われたとおりに、CDを聞いていたマロは、マータの姿をみてヘッドフォンをはずすと、
「いい匂いがする」
と言った。
「よければご飯どうぞ」
と、もう一度声をかけると、うれしそうに立ち上がった。
「フォークとナイフか、久しぶりだね」
食卓を見たマロはそんな軽口をきいた。
「胃のほうは大丈夫?スープが欲しければお昼の残りがあるけど」
「大丈夫だけど、少なめにしてもらえるかな。スープは欲しい」
マロは見た感じ、ずいぶん食欲が出てきたみたいだ。相変わらずマータの食べる量よりは少ないけれど、豚肉をしっかり食べた上、食後にはコーヒーを飲むとまで言い出した。
「良かった。調子いいみたいで」
コーヒーカップを渡しながらマータが言う。
「昼間洗濯物を干したりして、体を動かしたからかな」
「洗濯っていいね。眠くなるし。干すときは運動になるし。洗濯療法だ」
マータの他愛ない冗談に、マロは笑ってから、マータの顔を見た。なにか問いかけるような視線に気づいたマータは、
「あ、ごめん、牛乳とか砂糖とか要る?」
と尋ねた。
「いや、えっと、牛乳をいただけるかな」
「温める?」
「そのままで」
「はい、自分で好きなだけ入れて」
「ありがとう」
マロは牛乳を受け取りながら、口元に微笑を浮かべた。
一方マータはコーヒーを飲み干して、マロに告げた。
「マロさん、私明日の夜、外食の予定が入ったんだけど、構わないわよね?」
「デート?」
マロが片方の眉を上げて尋ねる。
「仕事。相手は上司だし、既婚者です。私はそんな相手いないって言ったじゃない」
マータは声を荒げた。失恋中の乙女のハートが傷ついた。
「ああ、失礼。夜中にいてくれるなら、外食は構わないという約束だったね」
「あなたの晩御飯は用意しておくから」
マータはむくれながらも、申し出た。
「ありがたい。でも、明日またマージェレまで出かけるのは大変だね」
「ううん、上司がこちらに来る用事があるから、こちらで会うわけ」
「それはそれは」
マロはそれ以上触れようとせず、コーヒーカップを置くと、
「さて、後片付けなら、手伝ってもかまわないかな」
と言い出した。マータは迷った。なんだかマロが、マータに懐いてきている気がする。だからといって、そっけなくするのも可哀想だ。せ、性的に無理でも親しくなるtていうのは、例えばお母さんとか、姉妹とかみたいに、ありえることなんだし、数日だけのことだし、まあ。
「じゃあ、えっと、お皿洗うのと拭くのとどっちがいい?」
「子供のお手伝いみたいだね。私が拭くから、あなたは洗いながら、片付ける場所を教えてもらえると助かる。お昼には、よくわからなくて適当に食器棚に入れたから」
本当にきちんとした人だ。




