きな臭い
先日、雨が降ったので、公園はいつもよりぬかるんでいた。ベンチの下は踏まれて窪んでいるので、ちょうどそこだけが水溜りだ。マータはうっかり水に踏み込まないように足を伸ばして腰を下ろすと、買ってきたハンバーガーの紙包みを開いてかぶりついた。
しばらくスープが続いただけなのに、肉を食べるのが久しぶりのような気がする。ケチャップと肉汁の至福。マロは今頃、マータの作ったパンとスープを食べているだろうか。ハムとチーズをはさんでおいたが、食べ応えが、ええっと、よく言われるところのシズル感という奴が足りなかったかもしれない。マータは唇からはみ出した脂を舌で舐めて、ポテトフライの袋を開けて、二、三本銜えて引っ張り出すと、そのまま咀嚼して飲み込んだ。残念ながら冷めかけでのどにつかえる。ミネラルウォーター。晩御飯には肉とジャガイモを出そう。おいしいのを。
ゴミを掌で丸めながら、失恋中の乙女にしては食欲満点だなあ、と、マータは自嘲的に考えた。色気がないにもほどがある。人影のない公園の、落書きだらけのくず入れにゴミを押し込むと、パソコンの入ったリュックをゆすりあげる。いいよ、それがマータ・ヨネスクだ。母が死んだ時だって、食事の支度はしたものだ。さあ、仕事の続きだ。
出版社の経理の座席を借りて、マータが経費の手続きをしていると、背後で人の気配とコーヒーの香りがした。あ、いい匂い、とちらっと見ると、担当社員のヨナスが眼鏡越しにうなずいた。どこかでテイクアウトしたらしい高そうなコーヒーの容器を片手に、
「ヨネスク、ちょうどいいところにいた。ちょっと話があるんだが」
と身を乗り出す。
「すみません。少しだけお待ちください」
マータは伝票に書きかけていた自分の名前を書き終えると、目を上げた。
「はい、どうぞ」
ヨナスは不機嫌そうに眉根を寄せ、
「いや、社内はまずい。どこかで夕飯でもどうだ」
と早口に問いかけた。
「あ、今晩は、先約があるので駄目なんです」
バルトが、社員として採用されるならマータだと言っていたが、やっぱりその話だろうか。でも、今日はアンドレ・マロの夕食を作る約束だ。マータはとっさに断りの返事をすると、言い訳をつけくわえた。
「お話は伺いたいんですが、ターエストの実家に戻らなくてはいけなくて、申し訳ありません」
父の住む町の名を挙げた。
「ターエストな」
バルトは顎鬚をなぜた。
「いつまでいるんだ?俺も明日そちらに用があるから、なんなら明日の夜ターエストにするか?」
「明日なら都合つけられると思います」
マロに、夜出かけることもあると、事前に条件をつけておいてよかった。何か夕食の用意をしておけば大丈夫だろう。
「じゃあ、それで。また電話する」
ヨナスはすばやく立ち去り、マータは伝票のチェックに戻った。手を動かしながらも、あれこれと想像を繰り広げてしまう。バルトが言うとおり、採用の話だろうか。マータよりバルトのほうが優れているというのは、本当にそう思ってはいるのだが、バルトの人見知りの性格のせいで、やはりマータに声がかかるのだろうか。いやいや、バルトを社員に採用しようと思うのでマータも彼を説得してくれという話かもしれない。そもそも採用の話じゃなくって、社内で誰かが不正をしているのを見たことないか、みたいなサスペンス展開かもしれない。単純にもっと勉強するために講座を受けてみろ、みたいなご指導とか?いやでもそれなら社内ではできない話とヨナスが言うはずがないし・・
事務手続きを終えて町に出ると、通りには午後の日差しが明るく差していた。気持ちよく歩きながら、通り過ぎる女性の足元を見て、ヨナスと食事するなら、スカートとパンプスが入用だということに気づいた。「セントラルパークアベニュー」の服を着続けるのは、多少は気が引けるので、マージェレに来たついでに着替えをとってこようとは思っていたが、荷物が増える。
町の中心から離れる方向に20分ほど歩いて、エレベーターの無い、古いアパルトマンにたどり着いた頃、マータはコーヒーが欲しくなっていた。マータとミリアはここの5階でルームシェアしている。最上階で家賃は相場より安いのだが、マータにとっては、結構厳しい金額だ。膝をさすりながら、長い階段を登り、鍵を回して室内に入る。部屋の様子を見たマータは
「うわ」
と小声でつぶやいた。
椅子の背に男物のシャツが掛けてある。ケイレブのだろう。それくらいは仕方ないと思うが、座面にはズボンから下着や靴下まで積み上げられていて、ここで脱いだのか、みたいな有様だ。食卓の上には朝食の汚れた皿が出しっぱなしで、流しにはきっとその前のらしい食事の皿が積んである。ゴミも散らばっているし。マータはため息をついて部屋の窓を開けて、とりあえず換気した。コーヒーメーカーをセットして、出来上がりを待つ間にゴミだけは集めて捨てる。さすがにミリアの服が脱ぎ捨てられているということはなかった。そんなのがあったら叫んでいたところだ。カップに注いだコーヒーを手に自分の部屋に入ると、床にぺたりと腰を落として、あふれ出た涙を拭いた。




