47.薄紅色の誓い(2)
「この神なる力を汝と共に、此の世のすべてを超えて繋がることを願い、永遠の誓約を為す」
重ねた手の指先から、淡い光が生まれる。
真桜の手から伸びるのは、深紅の糸。暁翔の手からは、今なお穢れに染まる漆黒の糸。
互いの薬指から伸びた糸は絡まり、一つに結ばれていく。そして暁翔の糸を包み込むように浸透し、絡み合い、ゆっくりと輝く深紅色へと変わっていく。
「我が半身は汝のもの、汝の半身は我がもの。此の契りを決して解くことなく、時を越え、空を越え、共に歩まんことを」
その言葉が紡がれた瞬間——風が舞う。
桜の花弁が、まるで天地を埋め尽くすかのように空を覆い、一斉に咲き誇った。
山々に広がる無数の桜の木が、一瞬にして満開となり、淡い紅の雲が波のように広がっていく。
「……!」
真桜は息を呑んだ。
圧倒的な美しさだった。天地が祝福するかのように、薄紅色の花が咲き誇り、羽のように風と共に舞い降りる。それはまるで、二人の絆を祝福する証のようだった。
暁翔の体を包んでいた穢れが、光の粒となって消えていく。黒く絡みついていた靄は、静かに溶けるように消滅し、彼は、真の姿を取り戻した。
月光を閉じ込めたかのような銀の髪が、風に靡く。澄みきった青の瞳が、静かに真桜を見つめていた。
彼の纏う狩衣は、純白に輝き、袖口や裾には細やかな金糸の刺繍が施されている。それは彼が本来あるべき姿——神としての威厳を取り戻したかのようだった。
「……美しい」
水琴が掠れる声で呟いた。
「ことほぎの儀をこの目で見られる日がこようとは……」
彼女の言葉に、御三家の面々も息を呑んだ。
「真桜殿……その姿……」
綾斗が驚いたように言う。
「まるで……桜の神の化身のようだ」
彼の言葉に、八坂がゆっくりと頷く。
「白と薄紅を基調とした神衣……繊細な桜の刺繍が施され、まるで満開の花が風に舞っているようです。本質を映す鏡で見た時と同じですね」
そう言われて初めて、真桜は自分の姿が変化していることに気付いた。
「この縁を、運命を信じ、あなたの半身となり、共に生きていくことを誓います——永遠に」
真桜が誓いの言葉を紡ぐと、桜吹雪は二人を包み込むように舞い踊る。
「ことほぎの祝福を以て、縁を固める」
暁翔の最後の言葉と共に、桜の花弁が光となって空へと昇っていく。
やがてすべてが静まった時——。
そこには、浄化され、真の姿を取り戻した暁翔と、神の半身となった真桜が立っていた。
真桜は、繋いだままの掌に、かすかな違和感を覚える。手を開くと、そこには一輪の桜を象った簪が、静かに収まっていた。
「……これは?」
思わず、指先でそっと触れる。淡い光を帯びたそれは、どこか見覚えのある形をしていた。
「お前の力に合わせて、杖が変化したのだろう」
暁翔が、穏やかに微笑む。そういえばいつの間にか手にしていた杖がなくなっていた。
彼の笑顔を見た途端、真桜の胸が熱くなった。
何百年もかかると思われていた浄化が、こうして今、目の前で成された。
「……暁翔様」
思わず口にした名は、震えていた。
暁翔は、優しく手を伸ばし、真桜の髪をそっと撫でる。その仕草に驚いて目を瞬くと、彼は手の中にあった簪をそっと取り上げた。
「お前のものだ。俺が差してやる」
そう言うと、長い黒髪をかき分け、簪を静かに髪に挿す。その温もりが優しく、確かに真桜を包む。
「……よく似合っている」
暁翔の瞳が、柔らかく細められた。
「ありがとうございます……」
真桜は頬を紅潮させながら、静かに微笑んだ。
風が吹き、桜の花弁が、二人の間を舞い降りる。
「真桜」
名を呼ばれるたびに、胸の奥が熱くなる。
銀の髪が風に揺れ、透き通った青の瞳が真桜を映している。その眼差しには、迷いも、苦しみもなかった。ただ、ひたすらに真桜を求める想いが滲んでいる。
「暁翔様。ずっと、ずっとお慕いしておりました。自分の気持ちに気づくのが遅くなって、申し訳ありません」
真桜が言葉を紡ぐと、暁翔の瞳がゆるりと細められる。そしてその顔が、ゆっくりと近づいてくる。
熱を持った指先にそっと頬を包まれた。それだけで、息が詰まりそうになる。
「謝ることはない。お前とこうして再び向き合う日が来たのだから……」
かすかに囁かれた言葉に、心が震えた。
「ずっと……ただ願っていた。もう一度、お前に会いたいと。この手で、お前に触れられる日が来ることを——」
その声音に、どれほどの想いが込められていたのだろう。
真桜は、ただじっと彼を見つめた。
「……私も、です」
彼を救うために。彼の穢れを祓うために。そして——彼の傍にいられる未来を願っていた。
暁翔の手が、そっと真桜の腰に添えられる。触れられた瞬間、全身が熱に包まれたように感じた。
彼の唇が寄せられ、真桜のそれと優しく重なった。伏せた真桜の睫毛が喜びで小さく震える。
――この方のおそばにいられることが、こんなにも幸せだなんて。
「……お前は、もう俺のものだ」
暁翔が、唇を離す。けれど、彼の瞳は、まだ真桜を離さなかった。
「はい……私は、あなたの半身ですから」
そっと目を開けて呟いた瞬間、空に、光が満ちた。
まるで天が二人の縁を祝福するように、雲間から光が差し込む。春の陽光が降り注ぎ、山々を優しく包み込んでいった。
鳥たちが囀り、花々がそっと開き始める。まるで、新しい命が芽吹くように。
「お前がいたから、俺は救われた」
暁翔の声が、優しく風に溶けていく。
「これからも、ずっと俺のそばにいてほしい、真桜」
「……はい」
桜の花弁が、二人の間を舞う。
暁翔の温もりが、まだ唇に残っていた。その余韻に、胸がじんわりと熱を帯びていく。真桜は彼の腕の中で、そっと目を閉じた。
——夢ではない。これは、確かに現実なのだ。これまでの悲しみを乗り越え、ようやく辿り着いた場所。
この瞬間のために、自分はここまで歩んできたのだと、真桜は心の奥で静かに確信する。
ふと、そよ風が頬を撫でた。濃い蕾の紅が、淡い桃色へと変わり、空へ向かって解き放たれていく。花弁がひらひらと舞い落ち、世界を柔らかな薄紅色に染め上げていった。
かつては、災厄をもたらす存在として忌み嫌われていた彼。
「……人と妖、そして神の縁が、ここに結ばれましたね」
小さく呟いた言葉は、桜の花弁に溶け、風に乗って遠くへと流れていく。
この世界は、人と妖だけのものではない。神々もまた、そこに存在し、すべては繋がっている。
暁翔と出会い、惹かれ、共に歩むことを選んだからこそ——。
「これからも、ずっと……」
もう、離れたりしない。どんな運命が待っていようとも、二人なら乗り越えていける。
暁翔が優しく微笑み、静かに真桜を抱き寄せた。
空は澄み渡り、山々に咲く桜は、風に乗って永遠の花吹雪となる。
そして、二人の縁もまた永遠に、言祝ぎに包まれて続いていくのだった。




