50.湯上りも寛ぐ暇がありません
宿の人が湯船にお湯を入れてくれたので、私はありがたくお風呂を頂いた。
「はあ~、生き返る……」
冷たい雨に降られた時間はそう長くはなかったけれど、どうやら体の芯から冷えてしまっていたみたいだ。
もちろん、雨に濡れたからといってわざわざお風呂を沸かして入浴するだなんて、普段の生活では考えられない。これは、アルディナ様の計らいによる特別な入浴だった。
初めは私も固辞したのだ。でも、アルディナ様だけでなく、ノエルやソティーニさんにまで入浴を勧められたので、とうとう断りきれなかった。お風呂に入れない他の人たちに申し訳ないと伝えたものの、他の皆は湯船につかるという行為にそれほど魅力を感じないらしく、「私たちは全く気にしません」と返されてしまったし。
その言葉がどこまで本心を示しているのか分からなかったけれど、そんなわけで、私は久しぶりに日本式ともいえる懐かしのお風呂を堪能しているのだった。
今日は一日、本当に色々なことがあったなあ。
いや、今日といわず、巫女巡礼が始まってから、毎日がめまぐるしく過ぎ去っていく。
まだ巡礼に合流してからそれほど日数が経ったわけでもないはずだけれど、なんだかもう、ゆうに一ヶ月は過ぎているような気分だ。
そして、その旅もそろそろ終わりを迎えようとしているなんて。
(でも……)
私は湯船のふちに頭を預け、天井を仰ぎ見た。
(一体誰が、私を再召喚したんだろう)
一番大きな問題は、そこに尽きる。
誰もが疑わしいような、誰も疑わしくないような。考えてみても、答えなんて導き出せそうにない。
(……ううん、違う。私、ちゃんと考えたくないだけなんだよな)
誰が何のために私を召喚したのか、真面目にその問題に向き合いたくないのだ。
この期に及んで、いろんな人に迷惑をかけつつ今ここにいるというのに、自分の無責任ぶりにあきれてしまう。アルディナ様、やっぱり私、どうしようもない人間だよ。
でも、誰かを疑ってみるという作業が私にとってはひどく重荷に感じられて、頭に霧がかかったようになってしまうのだ。
(……お風呂、出よう)
このまま湯船に使っているとのぼせてしまいそう。
どうやら魔道具を使って湯を沸かしているらしく、一向にお湯が冷めてこないし。
用意してもらったタオルは、王宮で巫女の頃に使っていたものと遜色のない一品だった。
タオルを頭から被りながら、これはアルディナ様とほぼ同等の扱いを受けてしまっているのではないかと思い当たる。
アルディナ様が私を頼りにしているというようなことを言ったから、私の取り扱いランクが上がってしまったとか? だとしたら、それはちょっと困る。本当に私、何もできないただのお荷物に過ぎないのに。
戦々恐々としながら涼み場で頭を拭いていると、そこにひとつの影が差した。
アルスさんだ。
「あ、ハルカちゃんも湯上り? いやあ、こんなところで湯船につかれるなんて思いもしなかったよな。でも、サッパリした~」
同じく一行への飛込みでありつつお風呂を用意してもらっていたアルスさん、こちらは全く気負うことなく入浴を堪能したようである。
「確かに、なんだか申し訳ないけど、気持ちよかったかな」
私はちょっと警戒気味に、アルスさんに言葉を返した。
そんなこちらの事情に気づいているはずなのに、アルスさんは全く気にする様子を見せず、私の隣へどかりと腰を下ろす。
「よかったね、ハルカちゃん。皆に受け入れてもらえてさ」
「……」
「いやだな、そんな怖い顔しないでくれよ。安心して。無理やり連れて行くつもりはないから」
今はね、という一言が最後にくっつくことは必至だよね、もちろん。
「でもさ、無条件に受け入れられるわけがないっていうのも、分かってるだろ?」
「……わかってるよ」
「本当かなあ。せっかくここまで、ハルカちゃんは自分の力で頑張ってやってきたのに。これでノエルに言いくるめられて骨抜きになって、あいつの言われるがままなんかになっちゃったら、俺は結構悲しいよ」
冗談とも本気ともつかない口調でそんな風に嘯く。
つまり何が言いたいんだ、この人は。
「そういうアルスさんこそ、巫女巡礼に合流なんてしちゃってよかったの? フラハムティ様は、すぐに私を捕まえてこいって言ってたんじゃない?」
「うーん」
アルスさんは、少し考える素振りを見せた。
「あの人は、不慮の事態が起こっても、絶対に慌てた姿なんて人に見せたりしないからね。きっと今も内心穏やかじゃないんだろうけど、余裕そうな振る舞いのおかげで、こっちはかなり助かってるよ。いくらか好きに振舞える『隙』ができるわけだから」
「……? つまりどういうこと?」
「フラハムティ様の意に反した行動はしていないし、するつもりもない。でも、これは俺が好きでやってることでもある。そういうこと」
にっこり笑ってアルスさんはそう答えた。
ええと、結局つまりどういうことだ。
「あーーー、ハルカさん!!」
その時、甲高い声が私たちに覆いかぶさってきたので、私とアルスさんは揃って声の飛んできた方へと振り向いた。アルディナ様の付き人兼騎士見習いのクインさんが、鬼のような形相でこちらを凝視していることに気づき、私はぎょっとして目を瞬く。
「何をやっているんです、そんなところで!」
「え、と、お風呂をちょうど上がったところで……」
「風邪を引いてしまいますから、早く部屋に戻りましょう。いいですね?」
「あ、はい」
私はクインさんに引っ立てられ、ずるずるとその場から引きずり出されてしまった。
後に残されることになったアルスさんは、苦笑しながらそんな私たちを見守っている。あ、これはもしや、アルスさんから引き離されたということか。
「あの、クインさん。私は大丈夫ですから」
「何が大丈夫なもんですか!」
すでにアルスさんは影も形も見えなくなった部屋の廊下、ようやくクインさんは私を解放してくれた。しかし、彼女の剣幕は未だ影を潜める様子がなく、私はつい戦いてしまう。
「アルス様と二人きりになるなんて、言語道断ですよ。危なっかしくて、もう」
「クインさんもアルスさんのことを知ってるんですか?」
「ええ、とは言っても、直接の面識はありませんでしたけどね。あの方が間違いなく国の騎士であるというのは、私も分かっているのです。でも、普段から全く考えの読めない方という話なので、信用ならないといいいますか。そもそも、それを抜きにしても、彼はハルカさんを無理やり連れ去ろうとしたそうじゃないですか! それじゃ警戒するなという方が無理な話ですよ」
ごもっともである。
でも、そうか。クインさんは騎士見習いだというから、それでアルスさんのことも知っていたんだ。……そしてアルスさん、本当の本当に騎士だったんだな。この期に及んで、まだ彼が身分ある騎士だと信じきれていなかった自分がいる。
宛がわれた部屋に戻った私とクインさんは、向き合って互いのベッドに腰掛けた。
「今日は色々あってお疲れでしょう。何か、暖かい飲み物をもらってきましょうか。それを飲んで、今日はもうぐっすり眠りましょうね」
「ありがとうございます。でも、飲み物を取りに行くなら私もご一緒させてください」
「いいえ、そんな気を遣わないで。すぐに行って戻ってきますよ」
そう言って、クインさんは部屋を出て行ってしまった。
――ふう、確かに疲れたかも。
私はそのまま仰向けにベッドへ倒れ込んだ。
硬すぎず柔らかすぎない、程よい弾力のあるベッドが私の背中を受け止めてくれる。
シンプルな模様の天井をぼんやり眺めていると、それだけでまぶたが重くなってきた。久々に湯船につかったからか、身も心も思いっきりリラックスしているようだ。
ああ、私って何てお気楽なんだろう。
こんなに色々なことが起こって、しかもまだ何も解決していないというのに、ベッドに転がっただけで早々に眠くなってしまうだなんて。
本当にいつの間に、こんなに図太くなったんだ……。
・ ・ ・
まぶたの重さに耐え切れなくなってきた時、コンコンと控えめなノックの音が響いた。
それで意識が引き戻され、私はのろのろと上半身をベッドから起こす。
「はーい」
クインさんが戻ってきたのだと思った。
だから全く、何の心の準備もせずに返事をしてしまった――けれど。
「入るぞ」
扉を開けて姿を見せたのは、全く予想もしなかった人の姿。
ノエルだった。
びっくりしたまま固まっている私を気にするでもなく、ノエルは器用に後ろ手で扉を閉める。
彼の左手には、湯気を立てたティーカップが二つ。
え、あれ!? どこでクインさんと入れ替わったの!?
「ノ、ノエル」
「もう寝るところだったか?」
「いや、ううん。それは大丈夫だけど」
つい、歯切れの悪い返事になる。
「えっと、クインさんは……」
「さっき廊下で会った。少し散歩に行くからこれを頼むと言われたんだ。まあ、俺が言わせたようなもんだろうが」
えええっ。クインさん、あなたこそ、何を変な気を遣ってくれてるんですか。
一人愕然としている私に、ノエルからティーカップが差し出された。かすかに甘い香りが、ほんわりとした湯気と一緒に漂ってくる。私はお礼を言って、そのカップを受け取った。ああもう、わけが分からないけれど、とりあえずお茶を飲んで落ち着こう。
「体調はどうだ?」
「えっ、私の?」
ベッドに腰かけ、両手でカップを包み込みつつ、私は顔を上げる。
「今日は色々あっただろう」
「あー、うん。そうだよね」
いやあもう、本当に色々ありましたとも。
「でも、大丈夫。ありがとう」
そう言って、私はカップに口をつけた。
何とも言えない沈黙が部屋を包む。かすかに緊張の混じった空気、けれど不思議と居心地は悪くない。
「……ようやく、少しゆっくり話す時間ができたな」
「うん、そうだね」
何となく、しみじみとして私は頷いた。
確かに、ノエルと二人きりで話をするのって、私がここに飛ばされてきた初日以来のことなんだよなあ。
「アルディナ様の方こそどうなの? 体調は落ち着いてる?」
「ああ、大丈夫だ。大事をとって、今日はもう休ませたが」
「そうなんだ」
私はほっと息をはいた。
「明日の昼過ぎに、最後の町テナンヤへ向かうことになったから、手荷物はまとめておけよ」
「え、じゃあ、今日一日祈祷して、この町の教会は終わりってこと?」
「そういうことになる」
ノエルは何でもないように頷いた。
「アルディナ本人の希望だ。あいつも、腹をくくったんだろう。一日かけて祈りを捧げて手ごたえがなければ、滞在を伸ばしたところで仕方がないってな」
アルディナ様の決意。
これでもし、テナンヤの町の教会でも、手ごたえがなかったとしたら。
――どうなるんだろう。
何が待ち受けているのか、ちょっと怖い。
(でも、何があっても、見届けるって決めたんだから)
私はカップを持つ手に力を込めた。
「……アルディナのこと、受け入れてやるんだな」
「え?」
唐突なノエルの呟きに、私は俯きかけていた顔を再び上げた。
「見守ってほしいと言ったあいつの願いを。お前があんなに簡単に頷くとは思わなかった」
「や、やっぱりまずかった?」
「いや」
ノエルは小さく首を振る。
「少し、安心した。お前はお前なんだなと思って」
それはどういう意味なんだ。
怪訝そうに眉をひそめれば、すぐにノエルに苦笑で返される。
「頼まれれば、何だかんだで断りきれない。自分より人のことを優先しがちで」
「ええっ、そうかなぁ」
ノエルは自分の分のティーカップを手の中で弄びながら、ベッドのすぐ側のチェストに腰を預けた。
「こっちに戻ってきてからのお前は、前と違って、自分の意思と力で前へ進もうとしてただろう。もう俺が守って手を引いてやる必要もないんだと、幾度となく実感させられたよ。俺はお前にとって、過去の人間になったんだってな」
「そんなことは、ないよ」
むしろめちゃくちゃ引きずってるのは私の方なんですけど! ……とは言えない。
「再召喚されてからも、ずっとノエルには感謝してたよ。忙しいはずなのに、私なんかのことを気にかけてくれてありがたいなぁって。私の方こそ、ノエルにとっては完全に過去の遺物って感じなのにね」
「五番でも六番でも百番目でも、気にしてもらえりゃそれでいいって言ってたもんな」
うう! そのセリフをここで掘り返してくるかこの鬼畜!
ノエルって、相手の失言をしばらく知らん振りして流しておきながら、突然思い出したように蒸し返すからタチが悪すぎる!
「でも、俺はそうじゃないからな」
「何がよ」
やさぐれた返事を投げつけると、ノエルは真っ直ぐこちらを見据えた。
「俺は、お前の中で百番目に位置づけられるのは嫌だ。気にかけてくれてありがたいなぁ、なんて、他人行儀に感謝されても全然嬉しくない」
「ひ、人の感謝の気持ちにケチつけないでくれる?」
「言っとくが、五番でも六番でも足りないぞ」
もっと敬え心の底から感謝しろと、そう言いたいのか。
密かに戦いていると、ノエルは力を抜くようにそっと息を吐いた。
「……まあ、何もできていない俺がそんなことを言える立場じゃないのは、分かってるけどな」
「だから、そんなことないってば」
何だろう。
ノエルが何を言いたいのか、いまいちよく分からないから困る。
もっと自分を頼ってほしいと、そういうことなんだろうとは思うけれど、こっちだって自立するのに必死なのだ。そういう私の気持ちを汲んでくれているのなら、頼れだなんて簡単に言わないでほしい。
「まあとにかく! 巡礼も、残りあと一箇所になったことだし。ここまで散々迷惑かけたけど、これからはなるべく足を引っ張らないように頑張るから! 申し訳ないけど、あと少しの間、よろしくね」
あまりこの話題を引きずりたくなかったので、強引に話をまとめる方向に入ってみた。
が、ノエルは非常に不満げである。はあ、と一際大きなため息をつかれてしまった。
「……いいけど。それよりお前、訊かないのか、俺に」
「何を?」
「どうしてお前をこの旅に同行させているのか、とか。もっと言えば、お前を召喚したのは誰なのか、とか。色々あるだろう」
「それは……」
確かに訊きたい。
ノエルの言葉で全てが明らかになるのなら、聞いてしまいたい。でも。
「ノエルも、全部を知ってるわけじゃないんだよね?」
「そうだな、状況を探っている状態ではある」
「なら、今は訊かない方がいいのかもしれない、って思ってる。アルディナさんの行く末を見届けるって約束したし、その時がもうすぐなんだとしたら、変に話を聞いて身構えてしまうより、ちゃんと本当のところを自分の目で確かめたい……かな」
ノエルから話を聞いて、平静でいられる自信がないというのもある。偉そうなことを言いながら、私はただ問題を先延ばしにしたいだけなのかもしれない。
でも、それだけじゃない。結局私は、ノエルに全幅の信頼を寄せているのだ。ノエルは、彼だけは、きっと私を陥れるようなことをしないと信じている。ノエルが私に伝えるべきだと判断したのでないのなら、私が焦って知ろうとする必要はないのだ。それできっと、悪いようにはならないから。
明確な理由付けや弁明なんてなくても、だから私はこうして落ち着いていられるのだろう。
「そのことだが。逆に、お前に訊いておきたいことがある」
不意に、ノエルの声のトーンが変わった。
目をしばたく私を、彼は落ち着いたまなざしで見守っている。
落ち着いた――いや、違う。ものすごく真剣な、強いまなざしだ。
その意味ありげな視線に気づいて、私はカップを口元に運ぼうとしていた手を途中で止め、ぴしりと固まった。
「う、うん。何?」
私は背筋を伸ばし、ノエルの次の言葉に備える。
「お前――、全てに片がついた後、どうするつもりだ?」
ノエルは静かに、そう問いかけた。




