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命懸けの激闘を終えた僕らを讃える冒険者たち……なんて凱旋に憧れなかったといえば嘘になるけれど、それにしたって呆気ないほどの対応だった。
「え? 不死身のグリフォン? 本当に? 倒したの? すごいね」ってなもんである。
僕らの話が信じられていないのと、それくらいのことは迷宮じゃよくあるしな、という慣れた様子が、ギルドの職員からは見受けられた。
そもそもとして冒険者が自分の手柄を誇張するのはもはや当たり前だし、グリフォンが不死身だったのを証明することはもうできない。さらに言えば、低級の迷宮だからこそ珍しいだけで、上級に行けば訳のわからない魔物はごろごろいるらしい。
結局、僕らの手柄を本当の意味で認めてくれたのは、グリフォンに向かう時にすれ違った冒険者くらいのもので、彼らばかりは僕らの肩を叩いて讃えてくれた。報酬らしい報酬と言えば、そんなところだろうか。あとグリフォンの魔石と収穫品の利益。
不用意なままでの支配者戦で、すっかり疲れ果てた僕らは、打ち上げと称したささやかな宴会も途中で切り上げることになった。どれほどめでたくたって、疲れていると騒ぐ元気もないというわけで。
今日も今日とて、お湯とタライというコンパクトなお風呂で汗と汚れを拭い去り、着替えてベッドに入ったのだけれど、目を閉じてもどうにも眠りはこない。
疲れたままにぐっすりと寝落ちしたいときに限って、妙に目が冴えてしまう。
ベッドの中でしばらくごろごろと転がっていたけれど、さっぱり瞼が重くならないことに見切りをつけて、僕は起き上がった。
「––––こっわ」
思わず心からの声が漏れてしまう。
僕とがっつり視線が絡み合ったその女性は、紅の際立つ唇に笑みを引いた。
「お邪魔してるわ。あ、下らない質問はやめてちょうだい。いつの間にとか、どうやってとか、恋人はいるかとか、好きな宝石はなにかとか、ベッドでは上がいいか下がいいかとか。でもひとつだけなら答えてあげる」
「なら、僕を生かしておくっていう選択肢はある?」
問いかけに、女性は目を細めた。それは威嚇や不快さを示すものではなく、生徒の思いがけない出来の良さを認める仕草だった。
部屋の隅に置かれた椅子に腰掛け、脚を組んでいる姿は悠然としていて、不審者のくせにやけに格好が決まっている。真っ黒なドレスは折れそうなほどの腰の細さと胸とのメリハリを強調していた。
床に触れるほどの長い黒髪も相まって、闇に溶けるような黒さの中で、抜けるような白い肌がうっすらと光っているようにすら見える。
そしての美貌は、ミドと並び立つほどに飛び抜けていた。積み重ねた歳月の分だけに磨き抜かれた輝きと、大人の女としての妖艶さが重なっている分、魅惑されるものがある。
いつの間にか、どうやってかも知れず、明らかに尋常でない美女が部屋にいる。男としては喜ばしいけれど、心当たりがないならそれは不吉の訪れに違いないのだ。
美女は肘掛けに両腕をかけ、そこに顎を乗せた。思いがけず子どもっぽい仕草で、微笑みを浮かべたまま僕の顔をじっと見つめる。
「ないことは、ない、かな。眠っていたならそのまま永遠に憩いをあげようかと思っていたんだけど。こうして、わたしと言葉を交わせたのは運命なのかも知れない」
「……僕はトモス。あなたの名前を訊いても?」
「あら、そういう紳士的な対応、好きよ。逃げも隠れもしない余裕を持っている男の子は素敵だわ。自分から名乗るのは久しぶり––––私はペルトロ」
「ペルトロさん、と呼んでも?」
「その呼び方、可愛いわね。許しましょう」
「ではペルトロさんは僕の何を目的に? 自慢じゃないですけど、僕はいたって普通の人間だし、誰かが求めるようなものは持っていないですけど」
「そうかしら。この世界に二十四しか存在しないエルダーフサルクのルーンを宿して生まれた者、特別な運命を持っているわ。それに今はもうひとつ、ね?」
なぜ知っているのか、どこからか見ていたのか––––訊ねたいことはあっても、それを言葉にする前に止める。下らない質問はやめろ、と初めに言葉にしたなら、それはこの会話で絶対に守るべき条件だった。
何だって命懸けの会話をしなきゃいけないのか理由も分からずとも、この場ではペルトロがルールだ。強いものはルールを強制できる。弱いものはルールに従い、その中で最善を探さなきゃならない。
だから僕は頭を巡らす。下らない質問はだめ。けれど、良い質問ならペルトロは答えてくれる。良い質問とはなんだろう?
「……あなたは、ミドと同じ魔法使い?」
「そう。その通りよ」
「あなたは、僕の中にあるっていうルーンの行く末に興味がある」
「ええ。あるわ」
「それはルーンが欲しいとか大事だからじゃない」
僕は質問ではなく、断定する。
ペルトロはそのとき初めて、表情を変えた。予想外のことを言われたと、興味を惹かれている。これでいい、と僕は確信する。
「あなたは退屈してる。心底。毎日にぞっとするくらい。だから僕に興味がある。ルーンに関わる新しい騒動が面白くなるかどうかに期待してる」
「––––いいわ。すごくいい。感心しちゃった。状況をよく理解できているのね」
ルーンが目的なら僕と話すまでもなく、実力行使すればいい。質問を禁止しないのは、会話をする猶予があるということ。それは僕に興味を持っている証だ。そして彼女にとって良い質問とは、面白いこと––––わざわざ自分から僕に会いに来て、会話をするのは、退屈している意外に理由はない。
「あなたは僕に期待できるかどうかを見極めにきたんだ。生かすも殺すも、あなたにとってはどうでもいい」
「そうね。どっちでもいいわ。あなたを殺しても私の毎日になんの影響もない。けれど活かしておく理由もない。どっちにしろ退屈なら、小さな命を捻り潰せば少しは気も晴れるかも知れないし」
椅子の背に乗せた腕から、人差し指が立った。黒いレースの手袋の先で光が灯った。それは蝋燭のように小さく揺らめき、ペルトロの横顔を照らす。ただの灯火ではないとすぐに分かった。
背筋がゾクゾクと震えていた。見たこともない魔法の小さな火は、容易く僕の命を奪う力を持っているのだと、本能が理解している。
「……変な子。どうして笑ってるの?」
言われて、僕は思わず頬に手を当てた。知らずそこに笑みが刻まれていたらしい。
「––––死を感じるのは良いことだ。自分が生きてるって実感が持てる」
「そうね。けれどそれは生きていられるから感じられるものだわ。本当に自分が死ぬと思っていないの?」
「あなたと同じだ。死ぬのでも、生きるのでも、どっちでもいい。ただ今は生きているから、生きるために行動しているだけで」
ペルトロは小さく首を傾げて僕を見据えている。瞳は僕の心の底を明らかにするように覗き込んでくる。嫌がる理由も隠すものもない。それは本音だったから。
ペルトロがつまらなそうに指先に息を吹きかけると、指先の火は容易く消えた。
「あなたを殺すのは退屈そうだわ」
「そう。活かしておけば、少しは楽しめるかも知れない。どんな物語だって、少しずつ変化があれば暇つぶしにはなる」
「ふうん? どんな物語にするつもりなのかしら」
「そうだな……まずはいくつもの迷宮に、新米冒険者たちが挑む。魔物を倒しながら報酬を得て、どんどん成長していく」
「人間の成長、ね。私にとっては欠伸が出ちゃうわ」
「迷宮攻略を縦糸としたら、ミドの身体を取り戻すための道のりが横糸になる。誰がミドの首を切り落としたのか、身体を持ち去ったあの魔物は何なのか……それに、ミドの身体から解放されたルーンを集めていくことにもなるかもね。それが必要なら」
「ルーンを求める者は多く、そこに善悪はない。あなたがその争いに参加するなら、遠からず結果は同じことになるでしょうけど」
「行き着く先が同じなら、必死に足掻いてもがくほうが楽しそうだ」
この状況で、僕は視界が晴れやかになっているのを感じている。白く濁ったような霧は透き通り、部屋を満たしている夜の気配や、目の前に座るペルトロの人智を超えた美しさの暴力、ひとつ返事を誤れば、あるいは自分で平均台から足を出せば、ここでひとつの終わりを迎えるという緊張感。
懐かしい感覚が身体を駆け巡っている。自分は生きているのだという実感。この世界は現実なのだという確信。命の形がくっきりと手触りを伝えている。それがたまらなく嬉しくて、楽しくて、笑みが浮かぶのを抑えられない。
ペルトロは目を線のように細めた。唇がにっこりと笑みを作る。
「––––いいわ。あなたのような最弱の人間と、あの出来損ないの”魔法使い”が……それも惨めにも首だけになったあの子が何をできるのか、それを眺めるのも暇つぶしになりそう」
ペルトロは立ち上がる。ドレスの裾を床に引きながら僕の傍らに立つと、その指先で僕の頬を撫でた。そして耳元にそっと口が寄って。
「つまらない結果にならないように、気をつけて」
頭の中に吹き込まれるような声を残して。
気づいたときには、そこにはもう誰もいなかった。背中にじっとりと流れている冷めた汗が、ペルトロの存在が夢でも幻覚でもなかったことを示していた。
ルーンだとか、魔法使いだとか。さっぱり分からない問題だけが積み重なっている。ペルトロの言葉を信じるのであれば、僕とミドの持つルーンとやらを狙ってくる奴らもいるという。形のない財宝を隠し持っているのと同じというわけだ。
「……世の中、いろんな人がいるもんだ」
今までの人生がどれほど退屈だったのかを思い知らされるような気持ちだった。けれど、それは僕にとって福音だ。ミドの身体を連れ去ったあの化け物だけでなく、ルーンを狙う––––ペルトロのように人智を超えた存在と出会えるのかも知れない。
そうすれば僕は世界をはっきりと見ることができるだろう。生きているという実感を噛み締めながら、眠りにつくことが……。
これまでにない充足感を感じながら、僕は枕に頭を埋めた。
今まで実感も何もない日々をただ生きるだけだった。けれど今、僕の世界は着実に色を鮮やかにしつつある。
打ち切りの定番文句だけれど、今ばかりはこれ以上にしっくりくる言葉はない。
––––僕たちの冒険はこれからだ。
自分の冗談に思わず笑って、深く息をついたときには、もう意識は眠りに落ちていた。
久しぶりに、安らかに、眠れそうだった。
おわり




