10
静寂。身構えてみても、その首は再生しない。
ふう、と息をついたそのとき、グリフォンの身体から光が溢れた。黄金のような眩さに目を覆う。怯むほどの光量の中で、ミドが歩みを進めた。グリフォンの身体に手を当て、小さく何かを呟いている。言葉であるようでいて、どんな言葉とも違い、聞こえているはずなのにそれを認識できない。
けれどそれは確かに意味のある言葉らしい。光は途端に輝きを抑え、液体のようにぐねぐねと形を歪にしたかと思えば、ミドの右手の中で一握りの球体になっていた。
「……なんだったの、今の」
「解放されたルーンを制約しました。適当な魔物に刻まれると、同じことになりますから」
「ふうん? で、それはどうするわけ」
「ルーンは肉体に刻むことで安定します。本来、これは私のルーンですが、今の私には肉体がありません。ですので」
「ですので? ––––あ、ちょっと待て! 嫌な予感がする!」
僕は慌てて後ずさろうとするが、なぜか身体が動かなかった。絶対にミドが何かしたのだ。
「や、やめろ! 訳のわからない光の玉を僕に近づけるなってば!」
「? これはルーンです。訳はわかります」
「お前が知ってるだけだろ! あ、ちょ、ああああ!」
ミドはまったく無感情のまま、光の玉を僕の胸に押し当てた。
とぅるんっ。
と、滑らかに。なんの感触もなく、光の玉が僕の身体の中に吸い込まれてしまう。急に力が漲ったり、自分ではない自分になる感覚もなく、まったく何の異変もないことが、かえって恐ろしいということもある。
「……入っちゃったじゃん。え、僕もグリフォンみたいになるってこと? 腕とか生えてくる?」
「あくまでもルーンを保管しているだけです。制約を行使すればそれも可能ですが、生やしたいのですか?」
「……いや、大丈夫です」
便利に使えればいいからと適当にボタンを押しまくって爆発することもある。やっぱり理屈の分からないものは恐ろしいのだ。
動けるようになった身体で、僕は胸をさする。急に魔法の剣を引っ張り出されたり、光の玉を押し込まれたりしたわりに、穴も空いていないし、痛みもない。何だったんだよあれ。
不可思議な体験に首を傾げていると、クロエとイリアが駆け寄ってきた。
「もう、ぜんっぜんっ、意味が分からないんだけど!? 意味が分からなすぎてどうでもいいわ、とにかくふたりとも無事!?」
「あのあのあのっ! トモス様の身体から剣が出てませんでしたか!? ご無事ですか!?」
「格好良かった?」
「死んだかと思いましたよ!?」
傍目から見たらそうなるのか。普通、身体から剣って出てこないもんね。貫通したかと思われたんだろう。
「どうやってあのグリフォンを仕留めたのよ?」
「ミドさんのあの剣の魔術はいったいなんですか?」
「ああ、うん、二人とも疑問が尽きないのはよく分かるんだけど、僕も答えられない。知らないし。だからミド、質問に」
「––––ふぇっ!?」
突然の奇声に目を向けると、ミドが目を丸くして立っていた。先ほどまでは冷たさの中に魔術の神秘に触れる魔術師みたいな伶俐な雰囲気をまとっていたというのに、今はまるでぽけぽけで能天気な少女そのものだ。
「……えっ、あれ!? どうして私、ここに? ふわあっ!? お、おっきい魔物さんが倒れてますよ!? と、ととトモスさま!? どうしたんですかこれっ!」
慌てふためくミドの様子は、とても演技とは思えない。彼女自身も心底、この状況にびっくりしているのだ。ここに来たのも、元々はミドが勝手に走り出したからなのだけれど、その時点からもう記憶は残っていないようだった。
「––––なるほどね」
僕は腕を組み、大きく頷いた。
「ちょっと、何がなるほどなの!」
クロエが僕の腕を引き、耳元で小声で言う。
「さっきのミドはなに? 魔術師だったわけ? 急に変になったかと思ったらもう戻ってるしっ」
「これは、もう一人の僕現象だ」
「……はあ?」
これは非常に有名かつ、わりとありふれた症状なのだけれど、いざ目の前にすると驚くばかりだ。
「ミドの中に、もうひとり別の人格のミドがいるんだよ。記憶を失う前のミドなのかもしれないし、二重人格なのかもしれない。とにかく、あれもミドだし、こっちもミドってこと」
「……訳わかんないけど、とにかくミドでいいのよね?」
僕が「そういうこと」と頷くと、クロエはため息をついてこめかみを抑えた。理解し難いことには違いないだろうに、クロエは気を取り直したようにミドに近づき、その頭をわしわしと撫でた。
「ひゃっ、な、何ですかクロエさん!?」
「うっさい。心配かけた罰よ。今度は勝手に走り出しちゃだめ。わかった?」
「うう、まったく身に覚えがないことで叱られています……」
「詳しいことは後で教えてあげるわよ」
同性だからこその気安さか、それともクロエの世話焼きの良さか。急に記憶が抜け落ちたミドの不安や戸惑いをうまく逸らしてくれている。
正直、僕も事情はさっぱりだし、怒涛のような出来事の連続で頭が詰まっていた。どういうこと、と訊ねて、教えてくれるはずのもう一人のミドは、意識が隠れてしまったのか何なのか。とにかく、何も知らないミドには、僕らが教える側に立つしかないというのに、教えるべきこともわかっていないのだ。
やれやれ困ったもんだ、と突っ立っている僕に、イリアがちょこちょこと駆け寄ってきた。
「あの、トモスさま。事情はよくわかりませんけど、お疲れさまでした」
ぺこり、と頭を下げられる。イリアの労いが身に染みた。
「いやいや、こっちこそ。助けてくれてありがとうね。ふたりが協力してくれたおかげで何とかなった」
僕も頭を下げる。
と、頭がわしわしと撫でられて、驚いて顔を上げてしまう。
イリアが悪戯っぽく微笑んでいた。
「ふふ、これも心配をかけた罰、です。今度は無理しないでくださいね」
「ちょっとイリア、手伝って! グリフォンを解体するから!」
「はぁい!」
微笑みと柔らかい視線を僕に残しながらイリアは振り返り、クロエに駆けていく。その背中を見送りながら、僕は胸に手を当てた。
「あっ、ちょっと鼓動が早くなってる」
可愛い女の子ってすげえな。なんて、しみじみ感嘆したのだった。




