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迷宮には魔物がいる。魔物と戦うには武器と防具がいる。
剣は実家で使われていたものを貰ってきたが、防具を買う余裕はない。着替えや冬用の厚手の生地のものを着込んで、簡易的な防具にする。
服を着込んで着膨れした子どもが、剣一本を携えて迷宮に入ろうとする。奇異な光景だろうが、都会じゃ変なやつはこれでもかといるものだ。装備の整った冒険者に混じって列に並んでも、目を向けられることもない。
ただ、お姉さんが心配そうに手続きをしてくれた。十五を過ぎれば成人だ。成人のやることは自己責任。迷宮で死ぬも生きるも、そのための用意をどうするかもそいつ次第。受付のお姉さんに「気をつけて」と見送られて、僕は迷宮に入った。
迷宮といえば階層式で、階段で一階二階と下に潜っていくものかと思っていた。しかし入口の古めかしい門を潜ると、次の瞬間には、どこかの古めかしい村に立っていた。
「……転移系の門?」
ああ、そういうね。とすぐに納得できるのは前世の知識のおかげだろう。
振り返ると、白い霧が渦を巻いてそこに浮いている。ギルドの講習で説明を受けた限りじゃ、この渦に入れば元の場所に帰れるらしい。
この町はどこにも繋がっておらず、元の場所とはズレた異界だという。そしてそういう異界はいくつもあって、それを門が繋いでいるのだ。そのいくつもの異界を総称して「迷宮」と呼んでいるだけであって、地下深くにひたすら繋がる穴のような迷宮ではない。
話に聞いても想像は浮かばなかったけれど、実際に体験すればこういうものかと腑に落ちる。
空は青く、古びた村の家々の向こうには丘が見える。慣れ親しんだ光景ながら、人の気配はまるでない。それが違和感といえば違和感で、恐る恐る通りを歩いた。
唸り声。ハッと気づいた時には、真横の家の扉が押し破られ、飛び出したそいつが襲いかかってきた。
剣を抜く暇はなかった。迷宮という環境で完全に気を抜いていた。剣を振る習慣もない。僕はたたらを踏むように後ろに下がって、足をもつれさせてひっくり返った。
それが良かった。
飛び出してきたそいつが振り抜いた一撃は空振りになった。勢いのまま、そいつもまた転がった。僕は立ち上がり、とにかく走って距離を空けて、振り返る。
黒々とした緑の肌をした、大きな頭に子どものような細い体躯。ぎょろ目を揺らしながら僕を睨むそいつの、開いた口から涎が垂れ落ちた。
「……ゴブリン。これが雑魚? 嘘だろ」
はは、と乾いた笑いしか出ない。僕よりも低い背でか細い身体は、見た目には非力な老人のようだけれど、その視線や鋭い牙は魔物と呼ぶべき脅威の証だし、何より手には錆びた手斧を握っている。自分を殺す気で凶器を振り回してくる生き物に、雑魚も何もない。
ゴブリンは首を左右に傾げながら僕を観察している。小さく鳴き声を上げたかと思えば、俊敏に走り込んでくる。
怖い。怖いはず、だと思う。
魔物が僕を殺そうとしている。命の危険だ。怖いに決まっている。
僕は理性的に、理論的に感情を捉えていた。だが、恐怖とはこういうものだろうか。首から上はゴブリンを恐れながら、心臓から下は水の中に沈んでいるように感情の温度が鈍い。視界には白いモヤがかかっているみたいで、牙を剥くゴブリンの顔もくすんで見える。
この世界に現実感を感じられないことが、今はむしろありがたい。身体は強張りもなく、腰に下げた剣を抜いた。
走り込んできた勢いをそのままにゴブリンが手斧を思い切り振りかぶる。当たれば死ぬかもしれない。痛いだろう。だから避けよう。それだけのことで。
左足を引いて半身になる。ゴブリンが振り下ろした手斧がまっすぐに振り下ろされて、地面にめり込んだ。重みでゴブリンの身体が引っ張られて、僕の目の前には後ろ首を晒している。
だから両手で握って真上から真下にただ振り下ろした。
ゴブリンの首が飛ぶ。




