第18話 白い油断
それは夏休み終盤のある日だった。
赤澤夕陽の訪問を明後日に控えたその日も、相も変わらずの酷暑であった。夏休みも終わろうというのに気温は下がらず、部屋の外は地獄と表現しても過言ではない。
「じゃあ、紫音は出かけるからね」
昼食後、部屋の中央で寝転びながらソシャゲのイベント周回に勤しむ俺の耳に届いたのはそんな声だった。
自ら地獄に赴く紫音はお洒落していた。
ばっちりとメイクを決め、普段よりも若干露出が多い服を着ている。夏休みが始まった頃に比べると肌が焼けているように見える。健康的でなによりだ。
「晩飯はいらないんだろ?」
「うん。あんまり遅くならないようにするから心配しないで」
「わかった。気を付けてな」
「了解」
紫音が出かけることは昨日聞いた。
どうやら友達と遊びに行くらしい。この気温の中でご苦労ではあるが、友達付き合いは大事なので暑さに気を付けるようにとだけ言っておいた。
わざわざ遊びに行くことを断ってきたのは家に誰もいないからだ。
今朝、両親は新婚旅行に出かけた。数日間は戻ってこない。
というわけで、家に誰もいなくなったのでゲームの音量をマックスにした。例のアイドルゲームで水着衣装なるものが登場したおかげでモチベーションはとてつもなく高まっており、俺はしばしアイドルの歌とダンスを堪能した。
あらかじめ用意していたアイスを手にし、この夏休み何十回目かの幸せな時間に入る。
天国気分を味わっていると。
「……」
インターホンが鳴った。
しばし考えてからゲームの音量を下げ、息を潜めた。
冷房の効いた部屋から出るとかありえない。この酷暑の中を出歩くとか自殺行為だ。居留守を使うなと批判する輩もいるだろうが、俺が悪いわけではない。都会の夏が暑すぎるのが悪いんだ。どうせ宗教の勧誘か営業だろう。放置していれば帰ってくれるはずだ。
居留守を使う。
「……」
予想に反して来客は諦めてくれなかった。
何度も連打された。
こうなってくると不安に駆られた。確かに勧誘とか営業の可能性は高いが、もしかしたら急ぎの用事かもしれない。緊急性の高い用件だった場合はさすがにまずい。両親も紫音もいない今、この家の問題は俺が片付けなければならない。
重い体を起こして部屋を出て、モニターから覗く。
そこに立っていたのは怪しげな服装のオバサンでもスーツ姿の男性でもなく、見知った顔だった。
「……白瀬?」
白瀬真雪だ。
頭にハテナマークが浮かぶ。
暮らしている場所が近いから我が家を知っているのは驚かない。問題はこれまで一度も来なかった奴が急に尋ねてきた理由だ。
無視しても良かったが、あいつが一人暮らしと知っている。何かしら事件が発生したのかもしれない。そう思って玄関に向かった。扉を開けるとそこには俯き加減の白瀬がいた。
「どうした?」
開口一番そう声を掛けると、白瀬が俯いたまま俺の胸に飛び込んできた。
「うぉっ!」
突然のことに驚いた俺はすぐに周囲を見る。近所の人に見られていたらどうしようという小心者っぽい考えからだ。抱き着いてくる白瀬に触れないように注意し、ゆっくりと玄関を閉じる。
それから白瀬はしばらく胸に顔を埋めていた。
何のこっちゃわからない俺は直立不動で佇む。こんな時、イケメンなら肩を抱くとか、抱きしめるとかするんだろうが生憎と俺にそんな度胸もスキルもない。
数分が経過した頃。
「……終わりです」
ぽつりと呟いた。
「終わりって?」
「わたくしの八雲が紫音さんに誘拐されました!」
「誘拐!?」
「もうすべて終わりです。あのデートで大人の階段を上ってしまうんです。それもこれもわたくしの油断が原因でした。夏祭りなどに行かせたことで仲が急速に発展したと思われます。失態です、我ながら情けないです」
畳みかけるような情報の波が俺の頭を襲う。
待て、話を整理しろ。
わたくしの八雲?
紫音に誘拐された?
デートで大人の階段を上る?
これらの単語を一個ずつ丁寧に頭で整理していく。
わたくしの八雲というのは自分の弟って意味でいいだろう。
続いては紫音に誘拐されたという点だ。残念ながら華奢な紫音に八雲君を誘拐できるほどの腕力はない。つまりこれは紫音が八雲君を誘ったと捉えていいだろう。あるいは逆に八雲君が紫音を誘ったけど白瀬には弟が誘われたように映ったからそう言っているだけ。
デートで大人の階段を上るって言葉に関しては、つまりはそういうことだ。
ってことは、紫音は八雲君と出掛けたのか。
友達と遊びに行くという話だったが、相手は聞いていない。そういえば夏祭りも八雲君と共に行動していたし、今日の紫音はお洒落をしていた。デートという可能性は考えていなかったが、高校生という年齢なら彼氏彼女の関係になっていてもおかしくはない。
八雲君は夏祭りで男を見せたのか?
惚れてるのは丸わかりだったが、告ったってわけだ。紫音の気持ちは知らなかったので多少驚いたが、仮にそうだとしても兄としてはノータッチの方向で行くつもりだ。八雲君はいい男だし、下手に口を挟んで家族関係を悪化させるのは悪手だ。
とはいえ、これが確定情報なのかわからないので何とも言えない。
「ひとまず落ち着け。事情を詳しく聞かないと判断できないが、まだそうと決まったわけじゃないだろ。大人の階段とか勝手な憶測はよくないぞ」
「……そうですわね。確かに取り乱していましたわ」
「冷静になってくれたならいい。事情を話してくれるとありがたい」
そう言って俺は白瀬から引き離す。
白瀬はまだ俯いたままだ。
「昨夜のことでした。八雲からメッセージが届き、本日紫音さんとお出かけするから服のチェックをしてくれないかと自撮りした画像が送られてきました。内容を聞けば夏祭りの日に約束したようです。二人きりでショッピングや映画を楽しむそうです」
「ふむふむ」
デートは確実だが、交際しているかは不明か。
「良かったじゃないか」
「……良かった?」
「八雲君に春が来たわけだろ。プールの時に紫音にべた惚れなのはわかったし、上手くいきそうで俺としてもうれしいよ」
プールの件で白瀬が八雲君とデキているのではないか、という俺の推理が的外れだと知った。
八雲君はわかりやすく紫音に惚れている様子だった。交際を開始してくれたのならおめでたい出来事ではないか。
姉として白瀨も喜ばしいはずで――
「ふざけないでくださいっ!」
へっ?
「あなたにはわからないでしょうが、わたくしは八雲に惚れているのです!」
衝撃的なカミングアウトに俺は固まる。
「さぞ驚きでしょう、そうでしょう。気持ちが悪いと罵ってくれても構いませんわ。わたくしは幼い頃から八雲に特別な感情を抱いていました。そのせいで中学時代にはある男性を傷つけたこともありました。紫音さんに恋心を寄せていたのもわかっていました。八雲を男神にしてわたくしが女神になって親密な関係を築いてやろうと画策していたりもしました。ですが油断した馬鹿なわたくしはプールで接近を許し、夏祭りではデートの約束を許してしまったんですっ!」
感情を爆発させた白瀬はぜぇぜぇと荒い息をしていた。
「とっ、とりあえず落ち着けよ。冷静になれって」
「……そうですわね。失礼しました、取り乱しまし――」
顔を上げた白瀬は何かに気付いたように目を見開いた。
そう、白瀬同様に俺も油断していた。
家に居るときはコンタクトではなくメガネを着用している。そして、髪の毛は赤澤に注意されたのに切っていない。というのも明日散髪する予定だったからだ。つまりは一学期に比べると大分伸びていることになる。
今の俺の状態は限りなくかつての自分に近い姿であった。
「まさか……翔太さん?」
バレた。




