黒色の独白 前編
バイトからの帰り道、ある家の前を通った。
昔、大好きだった人の家。
わたしは過去にいくつもの問題を起こした。そのせいで多くの人を傷つけ、多くのものを失った。この家に暮らしていた人もそう。
我ながら地味な子だった。
幼い頃から目立つことが苦手で、学校では教室の隅っこで読書していた。友達は少なかったし、男子にモテるなんてこともなかった。容姿のほうもすこぶる地味で、メガネを掛けて髪をおさげにしていた。
でも、単に地味で暗いだけではなかった。
家でのわたしは明るく、家族の前だと中々に生意気なクソガキだった。内弁慶というか、人見知りというか、大勢の人の視線が苦手だった。
だから声には出さずいつも内側で本音を喋っていた。
「ご、ゴメンなさいっ」
……クソが。てめえのせいだろこのカス。
みたいな感じだった。
口ではおどおどしながら謝り、心の中で罵倒していた。それでも本音は隠していたのだから、周囲から見れば暗くて地味な子に映ったのは間違いない。
二重人格というわけでもない。ただ表と裏が激しいだけ。外では怖がり、内だけでイキっていた典型的な小物。
学校に行くのが嫌だった。
小学生の頃はいじめられていた。低学年の時、家に居る感じで調子に乗っていたらいじめっこに目をつけられた。いじめのせいで心を折られ、学校は休みがちになった。日々の生活が辛くて仕方なかった。
そんなわたしの支えは幼馴染であり、初恋相手でもある兄さんの存在だ。子供の頃は本物の兄のように慕っており、気持ちは恋心に変化していった。
恋が実らないのはわかっていた。
兄さんが夢中になっていたのは姉さんだ。両想いだったのは知っていたし、最初から勝ち目のない戦いだった。姉さんはわたしの目から見ても可愛い。
胸の奥に燻った気持ちを抱えたまま生活していた。進展はしないけど、わたしにとって兄さんは心の支えだった。
中学生を目前に控えたある日だった。親戚の集まりで酔っ払ったクソジジイに胸を触られた。
衝撃が走った。
発育が良かったので学校で男子の視線を感じたことがあった。先生から変な目で見られたこともあった。でも触られたのはそれが初めてで、あまりの気持ち悪さに震えた。
男嫌いを発症した。父と兄さん以外の男が苦手になっていた。
中学生になると思春期を迎えた同級生が恋愛とか友情とか言いだすようになった。
わたしは相変わらず蚊帳の外だった。教室でも空気だ。読書をすることだけが楽しみで、イケメンとか美少女とか言い出す連中を小馬鹿にしていた。
給食を食べ終わると大好きだった本を求めて図書室で過ごした。ここには誰も近づかない。わたしだけの楽園だ。
楽園での生活は一年くらい続いた。
中学二年になったある頃から図書室にはあの人が出入りするようになった。メガネを掛けた暗い雰囲気のある陰キャっぽい男子。わたしも人のことは言えなかったけど、負のオーラが漂っていた。
最初は名前も知らなかった。
教室で読書していると例の男子が廊下を通りかかった。その時、近場の女子がひそひそ話を始めた。
『知ってる? あの無川って赤澤さんのこと付けまわしてるらしいよ』
『あれ、それって誤解じゃないの。夕陽ちゃん幼馴染とか言ってたけど』
『そうなの? 私が聞いたのは失恋してそれから――』
そんな話をしながら彼女達はトイレに向かっていった。最後まで話せよと思ったが、わたしに話をしているわけじゃないので仕方ない。
幼馴染に失恋?
自分と同じ境遇だ。だから無川翔太君に親近感を覚えた。
勇気を出して話しかけてみると、意外に普通だった。見た目は陰気なのに話してみると気さくで、まるで自分のようでテンションが上がった。
無川君はわたしと同じ傷を持っていた。
初恋の幼馴染に失恋したという傷を。
似た者同士のわたし達は仲良くなっていった。仲良くといっても傷ついた者同士が傷を舐めあうようなものだ。元々奥手かつ男嫌いのわたしなので恋愛に発展するとかはないし、そもそも彼をそういう目線では見ていなかった。
会話の内容はお互いの幼馴染についてだった。
失恋したくせにお互いの幼馴染を自慢するちょっぴりおかしな日々だった。
無川君の幼馴染はあの赤澤夕陽。
友達がいなかった当時のわたしでも知っていた有名人だ。学校のアイドル的存在で、わたしのクラスでもよく話題に上がっていた人物。イケメンの幼馴染がいることも話題で、幼馴染に特別な思い入れのあるわたしにとって興味のある人物だった。
互いの惨めな初恋を自慢する謎な時間が妙に心地よかった。
だが、そんな居心地のいい時間は長く続かなかった。
知らない奴が入り浸るようになっていた。名前も知らない男だったが、サッカー部で活躍していたらしい。
あいつは気持ち悪い目でわたしを見ていた。胸ばっかり見ているのがわかって不快だったが、口には出さなかった。手を出してきたら大声を出して蹴っ飛ばしてやろうかと思っていた。
しかしあの日、事件が起こった。
いつものように図書室で読書していると、あいつは馴れ馴れしく話しかけてきた。今まで大人しかったあいつは部屋に誰もいなくなる機会をうかがっていたらしい。強引に迫ってきた。
腕を掴まれたわたしは発狂した。頭の中にクソジジイの顔が浮かび、力いっぱい振りほどいた。振りほどいた反動で地面を転がったわたしは頭を打って気絶した。
「……」
目を覚ますと自分の部屋だった。
事件の後、わたしはひきこもった。
怖かった。あの時、腕を掴まれたわたしは大声を出すどころか全身が硬直して動かなかった。蹴り飛ばそうとか考えていた自分が浅はかだったと震えた。
事件が発生してから毎日のように兄さんが見舞いに来てくれた。
おかげでわたしの心は少しずつ回復していった。兄さんはすでに姉さんと交際していたので恋心は消えかけていたが、それでも嬉しいものは嬉しい。
心のケアをして、学校に登校したのは一週間以上が経過した後だった。
「大丈夫だった?」
声を掛けてきたのはギャルっぽい子だった。
「え、あの……うん」
「良かった。みんな心配してたんだよ」
「……そうなんですか?」
彼女の誘導でクラスに溶け込むことができた。
クラスメイト達は優しく接してくれた。話しかけてくれるようになり、グループ分けでも孤立することがなくなった。初めて学校が楽しいと感じた。
それから昼休みは教室で過ごすようになった。
図書室にはトラウマがあるし、クラスの子達が話しかけてくれるので教室にいても居心地は悪くなかった。
だから、無川君がどうなっていたのか気付きもしなかった。
クラスメイト達はわたしに気を遣っていたんだろう。無川翔太の名前を誰も出さなかった。
そして無川君が階段から転落した事故があり、程なくして学校に来なくなった。
彼が登校しなくなった後だった。さすがに噂が広がりすぎていたのでわたしの耳にも入ってきた。
わたしが気を失っている時、無川君が襲おうとしていたという噂。
当初はその噂を信じた。意識がなかったので周囲の声だけが情報源だった。彼に対して恐怖を抱いた。
◇
三年生になった初登校日、無川君が転校したことを聞いた。
安堵していた。
でも、それが大間違いだったことに気付いたのは無川君が転校してから数日後だった。無川君やわたしを襲おうとしていたあの男がいなくなったことで図書室にも入れるようになった。
その日、図書室でばったり犬山蓮司君と遭遇した。
あの時の彼は酷く殺気立っていた。今にして考えれば当然だけど、当時のわたしは彼に睨まれる覚えがなくてビビったものだ。
犬山君と目が合った瞬間、彼はガマンできないといった感じで口を開いた。
今にして思えば犬山君も優しかった。正直、逆の立場なら手が出ていたはずだ。
そこで真実を知った。
あの女がいきなり無川君を犯人扱いしたこと、わたしを襲おうとした男が何の罰もなく卒業したこと、わたしがあの女と楽しく過ごしている姿そのものが無川君に対して傷を与えていたこと。
わたしは動揺した。真実が聞きたくてあの女を問い詰めた。そう、わたしをクラスに溶け込ませてくれたギャルっぽいあの子を。
「えっ、いや……だってそう見えたし」
聞けば無川君はそれを否定していたらしい。本が落下してきたからわたしの身を守っただけだったと。
その子は無川君の悪評から勝手に判断してその場で適当に言ってみただけだと。
「あたし悪くないよ。ただ言ってみただけだよ。したらみんな信じちゃったし、これも日ごろの行いって奴じゃん。ぶっちゃけ、あたしもあいつにそんな度胸ないと思ったけどね」
この時だった。
プツン、と頭の中で糸が切れた。
全部わたしのせいだ。わたしのせいで彼は引っ越しすることになったんだ。
それからは……荒れた。
わたしはイメチェンした。新しい姿になり、生まれ変わった気分で登校した。
「全部おまえのせいだ!」
姿が変わったわたしに全員驚く中、友達面したあいつの行いを告白した。わざわざ多くのクラスメイトがいる前で。
その内容を誰かがSNSに流したらしく、あいつは見知らぬ多くの人から誹謗中傷された。心が折れてしまったらしく、ひきこもりになってそのまま転校していった。
そして、わたしを襲おうとした男の進学先を突き止めて高校側に自分が襲われそうになったという情報を流した。男は入学したばかりの高校を退学になったらしい。その後、退学に不服を申し立てた男は暴れて警察沙汰になったらしい。
学校で無川君の悪口を言っていた奴を殴ったこともあった。わたしは彼の信用回復のために暴力を振るうことも厭わなかった。
東部中学校が荒れた学校と評判になったのはわたしのせいだ。
殴り合いのケンカ、大々的に告発からひきこもりに追い込み、さらに卒業生が警察沙汰となって――
もうめちゃくちゃだ。
派手なことをしたので所業は家族にも伝わった。これまでの事情を話すと両親は暴力はダメだと言いながらも一定の理解を示してくれた。
しかし、基本良い子ちゃんの姉さんは暴力などダメだと偉そうに言ってきた。姉妹ケンカとなった。兄さんは戸惑っていたけど、あの時のわたしはもう全部どうでもよくなっていた。
「うっさい。何も知らないくせに勝手なこと言うなっ!」
ごちゃごちゃ言ってきた姉さんを蹴っ飛ばした。わたしのほうが体格は良かったのでケンカをしても負ける気はしなかった。
「マジで鬱陶しいんだけど。消えろ」
姉さんはわたしの言葉と態度に涙を流していた。
その後、大学生になった姉さんは兄さんと同棲を始めた。それっきりだ。別に後悔はしていないし、謝ろうという気も起きない。
ただ、最後に見かけた兄さんの顔はとても複雑そうで、あの表情は心に刺さった。何となくだが、兄さんとの関係は今後ぎこちないままなんだと思った。
その後、報復を終えたわたしはどこか満たされない気持ちのまま生活していた。逆転した表と裏の性格はそのままに、中学生活を終えた。




