赤色の独白 前編
「おはよう」
高校二年の夏休み初日。起床した私は壁に貼ってある写真に向かって笑みを浮かべる。写真の中で笑う彼の姿に心が癒された。
私には忘れられない人がいる。
幼馴染であり、初恋の相手であり、物心ついた頃から高校二年生になった現在も未だに想い続けている相手――翔ちゃん。
翔ちゃんは私の王子様だ。
生まれつき赤い髪がコンプレックスだった。髪の毛のことでいつも虐められていた。悲しくて涙を流していると翔ちゃんは必ず駆けつけて、ぎゅっと抱きしめて優しい言葉をかけてくれた。身長は高くなかったけど整った顔立ちで、きれいな瞳が特徴的だった。
惚れないわけがなかった。恰好よくて、運動が得意で、優しくて、翔ちゃんは私の理想そのものだった。
恋心を抱きながら常々思っていた。
私なんかじゃ釣り合わない、と。
小学生の頃は常に嫉妬と劣等感に苛まれていた。私は可愛くもないし、運動もできない。頭はそこそこだったが、髪の毛というコンプレックスのせいで臆病だったため友達も少なかった。
それに対して翔ちゃんは私以外にも友達がたくさんいた。女の子の友達も多くていつも胸の奥に棘が刺さった感覚だった。だから告白できなかった。
『夕陽は可愛いんだからアイドルみたいにいつも笑顔でいればいいんだ。そうすればみんな友達になってくれるはずだ』
翔ちゃんが何気なく掛けてくれた言葉。
嬉しくて舞い上がった。友達なんて翔ちゃんがいればいらなかったけど、翔ちゃんが可愛いと褒めてくれた。
その日、私はアイドルのようになろうと決意した。
決意と恋心を内に秘めたまま中学生になった。
どうにか翔ちゃんと釣り合うように自分を磨いた。その甲斐あってか周囲から可愛いと言われることも増えていった。勉強も得意と胸を張れるようになり、運動もそれなりに出来るようになった。少しずつ自分に自信が持てるようになってきた。
そんなある日だった。
もう一人の幼馴染である犬山蓮司君と話していると翔ちゃんが悔しそうな表情を浮かべていた。その表情はかつて自分が浮かべていたものと似ていた。
――嫉妬。
憧れの王子様が私なんかにそんな感情を向けるわけないと思いつつ、確かめることにした。わざわざ翔ちゃんがいる時を狙って蓮司君と仲良くお喋りしてみる。
チラッと翔ちゃんを見る。
イライラと不安が入り混じったような表情で私を見ていた。間違いない。嫉妬している。
革命的な出来事だった。王子様が私なんかに嫉妬してくれる。優越感のようなものに全身が満たされていくのがわかった。
だから私は続けた。その感情を向けてくれるのが気持ちよくて、まるで自慰行為のような快楽に酔っていった。
気分を良くした私は更なる快楽を得るために翔ちゃんと距離を開けた。
翔ちゃんはますます辛そうな顔になった。呼び方を変えると捨て猫みたいな顔になり、それがまた私の感情を昂らせた。
比較対象である蓮司君は都合が良かった。
私にとっては単なる幼馴染で特別な感情はない相手だったけど、蓮司君は顔がいいと言われている。話も面白いと評判だ。頭がいいのは知っている。運動も得意だ。多くの女子にモテていた。
でも、私からすれば翔ちゃんのほうが上だよ?
頭の良さはそこまで求めないし、顔なら翔ちゃんのほうがイケメンだし、私からすれば翔ちゃんの話が一番面白い。性格の良さなら翔ちゃんのほうが圧倒的に上。だって嫉妬してる相手なのにいつも蓮司君のこと褒めてるんだもん。性格悪い人なら陰口とか叩くのに、いつも蓮司君を褒める。
ねえ、自分がいい男だってわかってる?
翔ちゃんは王子様なんだよ?
今にして思えば人生の分岐点はここだった。
素直に感情を伝えればよかった。自分の気持ちと考えを伝え、付き合ってくださいと頭を下げていれば良かった。
……だけど、私は盛大に道を間違えた。
憧れの王子様に嫉妬される快感から逃れられなかった。
はっきりわかるくらい翔ちゃんを貶めた。貶める度に興奮して、それでも登校時間になるといつもの場所で私を待っている翔ちゃんに安心した。いつも一緒に登校してくれるから翔ちゃんは私に気があると思い込んでいた。
そんな日々が続いた。
しかし中学二年のある日、ふと我に返る出来事があった。
友達に彼氏が出来た。惚気話を聞いているうちに自分も彼氏が欲しいと思うようになり、体と心が最愛の人を求めた。
そもそも私は何をしていたのだろうか。自分の行いがあまりにもしょうもない行動であると気付いた。
気付いた時には遅かった。
ある朝、いつもの待ち合わせ場所に翔ちゃんが来なかった。不安になって足早に登校すると翔ちゃんはすでに登校していた。どうしたのだろうと近づこうとしたら、友達が私を止めた。
私はあの噂を耳にした。
『無川翔太が赤澤夕陽のストーカーをしている』
身に覚えがなかった。
『無川翔太は赤澤夕陽を付け回しているらしい』
『放課後校門で待ち伏せしているらしい』
『夜に家の前をうろついていたらしい』
『スマホで盗撮しまくっているらしい』
尾びれが付いた噂が拡散されていた。翔ちゃんはそもそもスマホを持っていないのだから嘘でしかない。
しかも極めつけに。
『赤澤夕陽はストーカーされてることを認めたらしい』
私がストーカーを認めたことになっていた。
翔ちゃんは学校の嫌われ者になってしまった。
誤解を解こうとしても翔ちゃんのほうが逃げていく。理由は簡単、私と近くにいるだけで悪者になるからだ。アイドルのように振る舞ってきたせいで私自身多くの人から好かれるようになっていたことも影響している。
最低だ。
私は最低な女だ。
翔ちゃんを貶めるような噂を聞くのが嫌だったけど、なによりも翔ちゃんにそう思われているのがショックだった。
釈明しようとしても校内では翔ちゃんに会えない。学校外で会おうとしたが、何度家に向かっても会ってくれなかった。
焦った私は急がば回れとばかりに自分と翔ちゃんが幼馴染で小さい頃から仲良しだったと周囲に告げることにした。でも、これまで私が翔ちゃんを貶めてきたせいか噂は上手く浸透しなかった。
その最中、追い打ちのように黒峰月夜に関する噂が流れた。私がいくら取り繕っても拭いきれない悪評が翔ちゃんを襲った。
そして、翔ちゃんの誕生日。
プレゼントを用意して謝罪の機会を窺っていた私の耳に翔ちゃんが階段から落ちて怪我をしたという知らせが届いた。
その日を境に翔ちゃんは教室に来なくなった。何度も何度も家を訪ねたが、相変わらず会ってくれなかった。
謝れないまま中学三年生になる直前の春休み。翔ちゃんは転校していった。
◇
何も知らされないままの転校だった。
あの時の私は翔ちゃんが壊れてしまった事情を知らず、ただただ悲しんでいた。自分が犯してしまった馬鹿な行いがその一因かもしれないと罪の意識に苛まれていた。
罪を犯した私にはいくつもの罰が待っていた。
大好きな人を失ったダメージで立ち直れなくなった。しばらくショックで学校に行けなかった。
ようやく体調が戻って久しぶりに登校した私をクラスメイトは歓迎してくれたが、唯一蓮司君だけは私を射殺すような目で見ていた。彼は、彼だけはすべての事情を知っていた。
それ以来、高校一年生のあの日まで蓮司君との間に会話はなくなった。
幼馴染二人を同時に失った。
罰はまだ終わらなかった。
同じ中学校に通っていた妹に噂のことが知られてしまった。妹は憎悪に満ちた瞳で私を詰った後、両親にすべてを報告した。
私は自分のしてきたことを打ち明けた。
お母さんは翔ちゃんのお母さんである友里恵さんと親友同士だ。私の行いを強く非難した。
そこで初めて知った。翔ちゃんは私が好きなわけではなく、友里恵さんに私を守るよう頼まれていたから仕方なく一緒に登校していたと。
両親の呆れ果てた目と、妹の憎悪と軽蔑混じりの視線は今でも忘れない。実際、それから妹は私のことを姉と思わなくなった。家の中でも会話は無くなった。
約二年間、私達姉妹の関係は冷え切っている。
母に連れられて友里恵さんにも謝罪に向かった。翔ちゃんから事情を聞かされていた友里恵さんはすべてを知っていた。知らなかったのは私が翔ちゃんを大好きという気持ちだけ。何度も頭を下げた。謝罪は受け入れてもらえたが、内心はどうだったかわからない。
季節が夏に移ろう頃、もうひとつの真実を知った。
罪滅ぼしのために翔ちゃんがいかに素敵な人か噂を流していた。あの頃の私は少しでも挽回したかったのだろう。黒峰が自身に関する噂を否定したこともあり、順調に翔ちゃんのイメージが回復していった。
「……えっ、夕陽と無川って幼馴染だったの?」
親友の猫田葉月ちゃんと話している時だった。
ひょんなことから葉月ちゃんがあの噂を流した張本人だと知った。しかも葉月ちゃんは私がストーカーの噂を認めたと嘘まで吐いた。それを翔ちゃんに伝えたのだ。
「ゴメン……うち、てっきり夕陽があいつのこと嫌いだと思ってて」
嫉妬を煽っていた私の態度が嫌っているように見え、私のためを思ってそんなことをしたらしい。
元を正せば私が悪い。でも、それでも――
「ふざけるなっ!」
生まれて初めて人を叩いた。
犯罪者みたいに扱うなんて最低だ。おまけに私が翔ちゃんをストーカーと認めたなんて嘘まで吐いていた。あの言葉でどれだけ翔ちゃんが傷ついたか。
葉月ちゃんと絶交した。
そうして私は家族からの信頼、親友、幼馴染、最愛の相手を失った。
……しかし、本当の罰はまだ先に待っていた。




