第5話 黒いバトン
紫音が帰宅した。
これは完全に予想外だった。
突然の事態に俺達は声を失った。別に悪いことをしているわけではないのだが、紫音の帰宅は予定になかったので全員黙ってしまった。
……落ち着け。
動揺する必要などないじゃないか。単純に友達が来ていると言うだけでいいはずだ。紫音は常識のある子だから、この部屋に入って来ることはないだろう。そもそも誰が来ているのかわからないはずだしな。
「あれ、この靴って――お姉様!?」
などという声が玄関から聞こえてきた。
紫音は普段から黒峰と会っている。どうやら靴を見て気付いたらしい。靴だけで気付く辺りに少しやばさを感じるけど――
「あの靴、ちょっと前に紫音ちゃんと一緒に買ったの」
小さな声で黒峰が言った。
「買い物は一人でしたいタイプとか前に言ってなかったか?」
「その後で紫音ちゃんからどうしてもって言われて」
「……マジかよ」
一緒に買ったなら靴でわかるのも頷ける。
この際、買い物云々はどうでもいい。
問題は今まさに階段を上がろうとしている紫音をどうするかだ。このままなら確実に俺の部屋に来るだろう。
さて、どう説明するのが波風を立てずに済むか。この面子で集まって遊んでいると言うのは躊躇うというか、さすがに意味不明すぎる。
「ここは俺に任せろ」
「……蓮司?」
「翔太の顔を見ればわかるさ。事情を知られたくない上に、この面子が集まってる理由を上手く説明できないんだろ。俺に案があるから、話を合わせろ」
さっきの話を聞いて黒峰の事情は理解した。
だが、紫音に教えるのはやはり避けるべきだろう。反応は不明だが、余計な情報を与えて今の良好な関係にヒビを入れたくない。
俺には上手く誤魔化せそうにないし、ここは蓮司の案に乗るしかない。
「わかった。紫音には過去のことを何も言ってないからそのつもりで頼む」
蓮司は自信に満ちた顔で親指を立てた。
「そういうわけだ。黒峰も話を合わせてくれ」
「……わかった」
黒峰が小さく頷きながら鞄にメガネを片付けた直後、どたどたと音を立てて紫音が階段を上がってきた。そして、一度自分の部屋に入ってから俺の部屋をノックした。
立ち上がろうとしたが、それを制して蓮司が扉を開けた。
「お兄ちゃ――」
「初めまして」
「っ、犬山先輩!?」
蓮司と紫音は初対面だ。
さすがに男神である蓮司の顔は知っているようだ。ただ、知ってはいるが俺の部屋から出てきたことに酷く驚いた様子だ。
脳が機能停止したのか、紫音はしばしその場で固まっていた。
「俺のことは知ってるみたいだけど、自己紹介しておこう。二年の犬山蓮司だ」
「えっと、一年の虹谷紫音です」
互いに自己紹介した。
「……あの、どうして犬山先輩がここに?」
その後、紫音は部屋の中を見て黒峰の姿を見つけた。最後に俺の姿を見ると、安心したようにホッと一息吐いた。
多分、わかってはいたけど俺の部屋だと確認できて安堵したんだろう。
「紫音ちゃん。戸惑う気持ちはわかるけど、聞いてくれ」
「は、はいっ!」
「実は今日、俺達は作戦会議をしているんだ」
「作戦会議ですか?」
「そう、翔太を男神にするための作戦会議をしていたところなんだ」
はぁ?
あいつ何を言い出しやがった。
これまた想定外すぎる言葉に混乱してしまったが、それ以上に混乱したのは紫音のほうだった。
「お、お兄ちゃんを男神にすための……作戦会議」
紫音は口を半開きにしながら言葉を反芻した。
そりゃそうなるだろう。帰宅したら義兄である俺の部屋に現役の男神と女神がいたのだから。しかも俺を男神にするための会議とか言い出した。理解できなくて変な顔になってしまうのも無理はない。
「えっと……そもそも犬山先輩とお兄ちゃんって友達だったんですか?」
「親友だ」
「親友!?」
間違ってはいない。
全然間違ってはいないが、そこは別に友達で良かったと思うぞ。ほら、出会って間もないのにいきなり親友とか現実感薄いだろ。
さっき過去の話をするなと言ったばかりだろ。
「知らなかった。お兄ちゃんって犬山先輩と仲良かったんだね」
仕方ない。俺は大きく頷いた。
「どこで知り合ったの?」
「ほら、体育祭の時に俺達はアンカー同士だったろ。その縁で少し話をして、何となく気が合うなって話になったんだ。それからもう一瞬だな」
苦しい。我ながらめちゃくちゃ苦しい。
親友になるまでの期間が早すぎて明らかに苦しい言い訳だ。けど、他に言いようがなかった。
「……なるほど、お兄ちゃんは認められたってわけですね」
よくわからないが、紫音は納得してくれたらしい。
「犬山先輩のことはわかったけど、どうしてお姉様までお兄ちゃんの部屋に?」
続いての疑問は黒峰の存在だった。その疑問は当然のものだろう。
さて、どう答えるべきか。
「……協力するため」
迷っていると、代わりに黒峰が答えた。
「もしかして、お姉様もお兄ちゃんに協力してるんですか?」
「半分正解」
「半分?」
「わたしは紫音が帰るまでここで待たせてもらってた。虹谷が男神になるのは賛成だけど、それ以上に紫音の協力をしたいと思ってる」
「……紫音の協力ですか?」
「前にも話したと思うけど、紫音は女神に向いてると思う。だから、わたしは史上初の兄妹神の誕生を狙いたいと考えてる」
おいおい、黒峰まで何か言い出したぞ。
「女神候補になった時、わたしのところに相談にきたでしょ。あの時の紫音は満更じゃないって顔してたから」
「ま、まあ、お姉様と同じ立場には憧れますから」
紫音はそう言った後で。
「それにその、女神という称号に対して全然興味がないと言えば嘘になります。認められている感じがするし、可愛いって皆から言われてるみたいで満たされますし」
俺に話した時とはちょっと違う気もしたが、これは紫音の本心だろうな。
多少の興味はあって当然だ。
誰だって選ばれたら嬉しいものだ。面倒くさいとか、嫉妬とかされたら嫌だとかそういう感情がありながらも、選ばれたら嬉しくはないはずがない。承認欲求が満たされるというか、優越感もあるだろうし。
「知ってると思うけど、わたしは女神を続ける気はない」
「……はい」
「女神に向いてないし、ふさわしくもないから」
「そんなことないです! お姉様に憧れて天華院学園に入学した子もいるんですから。紫音だってそうです」
紫音は鼻息を荒くしながら言った。
「ありがとう。そう言ってくれると女神になって良かったと思う。でも、向き不向きはあると思う。わたしは向いてない。それに、面倒だから二度とやりたくないって思った。だから辞退したし、これを撤回する気もない」
「……」
黒峰はきっぱりと断言した。
「わたしが今まで見てきた中で一番女神にふさわしいのが紫音だった。体育祭の時も良かった。紫組は士気が高かったし、最後まで雰囲気が良かった」
「それは――」
「紫音の笑顔は人を幸せにする。だから、わたしは紫音を次の女神に推したい。女神に未練とかはないけど、それでも変な奴が後継者だと嫌だ。その点、紫音が次の女神なら安心できる。これはわたしの我儘だし、全然断ってもらって構わない」
黒峰は真っすぐな瞳で紫音を見た。
「わたしの後を継いで女神になってほしい」
しばし間があった。
思考が纏まったらしく、紫音は息を吸い込んで頷いた。
「わかりました。お姉様からのバトン、この虹谷紫音がしかと受け取りました!」
「……バトン?」
「ほら、こういう時に良く言うじゃないですか。バトンを繋ぐとか、バトンを渡すって。体育祭のリレーの時のバトンです」
それを聞いた黒峰は笑った。
「運動苦手だからリレーしたことなかった。だから、初めてのバトン渡しだ」
「任せてください。必ず兄妹神になってみせます!」
焚きつけられた紫音は燃えていた。
「ほう、こりゃ面白い展開になったな。翔太を男神にするためにこの場を利用したが、黒峰にも上手く利用されたか。こいつは文化祭が楽しみだ。個人的には桃楓ちゃんと翔太を神にしたかったが、さてどうなるかな」
蓮司は蓮司で楽しそうに笑っていた。
こいつ今、この場を利用したとか言ったな。後でプロレス技をお見舞いしてやろう。
勝手に話を進められたが、俺にはどうしようもなかった。
「というわけで、一緒に頑張ろうね。お兄ちゃん!」
「お、おう」
非常に不本意ながら、俺は男神を目指す流れになってしまったらしい。




