『如月真白』
しばらくの間、父の亡骸の前に座っていた。
色々なことを考えていた。これまでのことと、これからのこと。私がこれからやるべきこと。私がやらなければならないこと。
座り込んで、じっと考えていた。
「……夜兎」
いつしか夜兎は私の側に座り、父の亡骸に手を合わせて目を閉じていた。
「最期の時間、取っちゃってごめん。夜兎だって父さんの娘だ。話したいこと、あったよね」
「いい……。私は、あなたが来るまでに話せたから」
「そっか」
私も夜兎も、作り物の娘だという点では同じだ。
才羽数人の本当の娘は、今は亡き才羽海音だけ。ここにいる私は、彼女の代わりに愛された、彼女のクローンの一体だった。
ついに私は才羽海音という寄辺すら失った。いよいよ本当に私というものがわからない。だけど。
それを探しに行くと、決めたから。
「情報共有、しよっか」
「もういいの?」
「うん。待たせてごめん」
いつまでもじっとしてはいられない。先に進もう。この先に何があろうとも。
私は夜兎に、自分が一度死んでからの話をした。アルファ血清とコールドマンの手により蘇り、そこにいる魔女と出会ったこと。プロジェクト"D"の詳細について。
それからもう一つ、とても大切なことも。
「LIEのことなんだけどさ。なんかこれ、壊れちゃったみたい」
「そうなの?」
「うん。さっきから調子悪くて、動いたり動かなかったり。ちゃんと意識しないと動いてくれない」
「それはおかしい。脳に埋め込まれた生体モジュールには、中途半端な動作を防ぐプロテクトがある。部分的にでも破損箇所があるなら完全に機能を喪失するはずだ」
「そうなの? でも、だったら……」
「前も言った。LIEによらない判断をするためには、本能がトリガーになる」
LIEが壊れていないのだとしたら。
変わったのは、頭に埋め込まれたこの機械じゃないのかもしれない。
「お姉ちゃんは、前よりもちょっとだけ、素直になったんだよ」
「……かもね」
私が変わったんだ。LIEをコントロールできるようになるまで。
自力の変化とはとても言えない。そこでにやにやと嗤っている魔女や、私よりも嬉しそうな顔をしている夜兎、それにこの場にいないあの子の影響だ。
今までごめん、と小さく謝る。夜兎はゆるやかに首を振った。それが無性に気恥ずかしくて、うつむいて顔を隠すのが精一杯だった。
「あなた。そういう顔もするのね」
「魔女さんは黙っててくんないかな……」
「六歳児は大変ねぇ」
「マジでうっせえよ」
本当に、この女は余計なことしか言わない。悪意で舗装された悪意の女だ。時たま善意らしいものが垣間見えるのが、本当にたちが悪かった。
「夜兎。それよりも、真白とギルガメッシュはどこにいるの?」
「あの二人は……。行っちゃった」
「どこに?」
「わからない。私は、パパを見つけてからずっとここにいた。如月真白はどこかに行って、猫はそれについていったから」
真白が、夜兎とはぐれてどこかに行った……?
後ろをついていくだけだと宣言していたあの女が、ここに来て自発的な行動を見せた? 黒猫がついていったのなら安全だとは思うが……。一体、何のために?
「あら。こんな場所まで来たなら、行き先なんて一つしかないわよ」
「知ってるの? どこに?」
「多次元連結槽。多次元空間へと至るポータルを生成する空間ね。ここから先にはそれしかないわ」
「なんで、あの子がそこに行くんだ」
「さあ。あの子が如月真白だからじゃないかしら?」
「どういうこと?」
魔女は答えない。考えろという意味だ。言われるまでもなく、そうするつもりだった。
感情を鎮めてLIEを起動する。雑音のない静寂の世界。色んなことが起きすぎて疲弊した脳が、鋭さを取り戻す。
「如月真白が二人いるってことがずっと気になってた。父がその名で呼んだ以上、あんたが本物なんだよね。だったらあの子が偽物ってことになるんだけど、ここに来てもう一つ新しい可能性が出てきた。XG-029を利用したクローン技術。そういうことなんでしょ?」
「そうよ。あなたが見たという如月真白は、私のクローン体。ご名答ね」
「あの子が生体認証を突破できたのはこれが理由だ。如月真白と名乗ったり、兵装準備室の中にタレットがあることを事前に知っていたことから、あの子にはあんたの記憶が流し込んであるんだろう」
ひょっとすると、彼女は自分がクローンであることも知っていたのかもしれない。だからあの子は生に執着がなかった、と考えるのは穿ち過ぎだろうか。
「60点ってところしかしら。間違ってないわ。でも、本質とは程遠い」
「わかってる。どうしてあの子が作られたのか、ってことでしょ」
「そうね。残りの40点はそこよ」
研究者は無目的にクローンを作ったりはしない。父のエゴ――いや、感傷が私を生み出したように、如月真白が如月真白を作ったことには必ず理由がある。
まさかこの女に限ってセンチメンタリズムで自分の複製を作ったりはしないだろう。
魔女の目的については、一つ心当たりがあった。
「魔女さんはXG-029の研究をしてたんだよね」
「ええ、そうね」
「XG-029には他の個体に命令を下す女王個体が存在する。だけど野生の女王はまだ未確認で、これはまだ仮説に過ぎなかった。だからあんたは、それを実証しようとしたんじゃないか」
「どうやって?」
「女王個体を作ったんだ。自分のクローンを実験体にして」
魔女は微笑む。なんとも雄弁な笑みだった。
父といい魔女といい、研究者ってやつはいつもこうだ。探究心を言い訳に軽々と倫理を踏み越える。
その可能性をトレースできる私もまた、そちら側の人間なのかもしれないが。
「才羽博士が作り出したクローン技術は不完全だったわ。急速成長したクローンは脳記憶に齟齬を引き起こし、発狂してしまう。でもね、記憶なんて最初から入れなければいいだけなの。個人的体験に基づいたエピソード記憶を取り除き、意味記憶や手続き記憶だけを情報として流し込めば、実験体としては十分役に立つわ」
「それってつまり……。あの如月真白には、『如月真白』として生きた記憶がないってこと?」
「そういうこと。言葉は知っている。道具の使い方もわかる。この施設の詳細や、XG-029についての知識も全部頭に入っている。だけど、自分が自分として生きた記憶がない。それがあのクローン体ね。陳腐な例えをするなら記憶喪失みたいなものかしら?」
私には才羽海音として生きた記憶があったが、あの子にはそれすらもないのか。
記憶はあれど状況もわからずに放り出された私と、全てを知りつつも記憶がないまま生み出された真白。その境遇にどんな違いがあるだろう。
きっと彼女はひどく混乱したはずだ。私がそうだったように。
「というわけで正解よ。あなたが出会った如月真白は、XG-029の女王個体として作り出された、私のクローン体。他に質問ある?」
「あの大きさで作ったのは」
「趣味よ」
「ナルシストの上にロリコンかよこいつ……」
「冗談よ。時間がなかったの。急いでたから」
ふうん……。急いでたから、ね。
「でも、これでわかったんじゃない? どうしてあの子を見ていると、ついつい殺意が湧いてしまうのか」
「いや、それはわからないけど」
「だってあの子、人類の敵じゃないの」
「あんたがそれを言うか」
「ジョークではないわよ。どんなに人間に似ていても、あれは人外の怪物なの。あなただって、確証はなくとも無意識で気づいていたはずよ。ゆえにあれを本能的に危険視し、殺意を抱いた。典型的な反応ね」
XG-029の女王個体。人間めいた人外の怪物。生まれながらの人類の敵、か。
あの子は自分がそれであることも知っていたのだろうか。私や夜兎やギルガメッシュが、無自覚に彼女に殺意を向けていたことも。全部知った上で、私たちと共に行動をしていたのだろうか。
「それで……。真白は、なんで多次元連結槽に?」
「詳しいことはわからないわ。でも、私があの子だったらそうするでしょうね」
「どういうこと?」
「多次元連結槽には次元ポータルがあるわ。それは三十三時間前から今に至るまで、ずっと開き続けている。こちら側と向こう側は今も接続されたままなの」
頭の中に言葉が蘇る。三十三時間前。魔女はその時間に、何もかも吹き飛んでしまったと言っていた。
それにもう一つ、思い出すことがある。
「ねえ、夜兎。私たちが会った時、施設内部と連絡が取れたのはだいぶ前って言ってたよね。あれって正確には何時間前だったか覚えてる?」
「あの時点では二十九時間前。あれから三時間四十分五十二秒が経過している」
「つまり、それも三十三時間前か」
「よなやかん?」
「嫌な予感だ」
顔を見合わせる私たち二人に、魔女は愉しそうに嗤っていた。
「XG-029は本来この世界にあるべきものではない。自分がそれそのものだと最初から知っていたあの子は、きっとこう考えていたでしょうね」
そうだ。思い出した。時折真白は、そんなことを言っていた。
「――家に帰りたい、って」




