おはよう。自我の調子はどう?
冷たく、固いベッドの上で目を覚ました。
頭がぼうっとする。状況がわからない。一体何が起きている。
私は……。私は、死んだはずではなかったか。
「な、に、が……」
体を起こすと凄まじい悪寒がした。体の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような。薄皮一枚の内側で、自分が別物に作り変えられてしまったかのような。
気持ち悪くて、寒気がして、とにかく頭がおかしくなりそうで。
ベッドの上から転げ落ち、胃の中のものが空になるまで吐いた。
「あら、起きたの。おはよう。素敵なお目覚めね」
女の声がした。くすくすと、さえずるような嘲笑も。
顔をあげようとしてまた吐きそうになる。今度は何も出なかった。もう吐くものも残っていない。
「何が……。何が、素敵なお目覚めだ、クソっ……」
ようやく体を起こす。かつてないほど最低最悪の目覚めだ。霞んだ瞳がピントを調節し、モヤのかかった頭が現状を認識し始めた。
一体何がどうなった。
体は動く。どこにも異変はない。五体は満足にくっついていて、どこかに穴が空いているということもない。悪寒に反して私の体は綺麗なものだ。
あれは夢だったのだろうか。
否。体に異変はなくとも、服はズタボロだ。穴だらけになった装備が、私の身に起きたことを如実に示している。
「言っておくけど夢じゃないわよ。あなたは本当に死んでたわ。千切れた手足と臓物を集めるの、大変だったんだから」
女はくすくすと嗤う。今度こそ私は顔を上げた。
背の高い女だった。ウェーブがかったブロンドの髪をたなびかせ、白衣をまとう姿は瀟洒と呼んで差し支えない。
美しい女だ。しかしその顔に浮かぶ、あまりにも作り物めいた満面の笑みが、彼女の印象を塗り替える。
この女は不気味だ。
女は嗤う。嗤い続ける。完璧に作り込まれた笑みの奥で、瞳だけが凍てつくほどの冷たさを放っている。油断ならないどころではない。この女は、最大級の警戒を向けてしかるべき対象だ。
一目でそう判断した。いや、そう判断させられたのかもしれない。意図的にそんな印象を植え付けられるくらい、作為的な笑みだった。
「あんたが……」
自分の言葉には明らかな敵意が宿っていた。
らしくないことだ。LIEがあるのに感情を制御しきれないなんて。
意識して頭を冷やすと、駆動したLIEが思考を冷やす。私の世界から感情が消え去り、雑音のない静寂が戻ってきた。
「あんたが、私を蘇生させたの?」
「いいえ、違うわよ。私はあなたの残骸をかき集めただけ。手を動かしたのは、それ」
白くほっそりした指が唄うように指し示す。その先にあるのはコールドマンMk4。ついさっきまで私が寝ていたベッドの隣には、機械の名医が静かに佇んでいた。
改めて状況を確認する。倉庫のような大部屋に、私はいた。
よく整頓された、小綺麗な部屋だった。部屋の壁にはラックが並び、拳銃からライフルまで大小様々な銃が収められている。
それ以外にも弾薬や弾倉を詰め込んだ棚に、ベストやホルスターといった装備品一式、医薬品に携帯食料、用途不明の小型デバイス、ロープや消防斧といった道具類まで。おおよそありとあらゆる携行装備品が勢揃いした部屋だ。
部屋の中央には大きなテーブルが一つ。その上には破壊された機関銃――いや、タレット砲台の残骸がある。
私はこの部屋を知っている。
「兵装準備室、か」
「そう。あなたはここで死んでたわ。タレットの銃弾にずたずたに引き裂かれてね」
「そんな状況から蘇生させるなんて、コールドマンも大したやつだ」
「あら?」
女は口角を上げ、愉しそうに嗤った。
「コールドマンにそこまでの力はないわよ。それはただ、ばらばらになった肉片をつなぎ合わせただけ。千切れたお人形を直すようにね」
「……どういう意味?」
「あなた、才羽海音でしょう?」
女は質問に答えない。才羽海音かと問われ、私は小さく首肯した。
「死ぬのは初めてって顔ね。覚えておきなさい、あなたは死なない。何があっても死ぬことができない。どんな地獄に突き落とされ、どんな災禍に身を焼こうと、最後の最後まで生き続けるわ。そういう風に、あなたは作られた」
「それは……。アルファ血清のことか」
「あら。あらあらあら。勤勉じゃない、偉いわぁ」
アルファ血清のことはレポートで読んだ。私の体は、多次元空間での活動に耐えるよう作り変えられたらしい。
多次元空間が何かなんて私は知らない。知らないが、私の体は人間のように見えて人間ではない。それだけは確かだ。
「XG-029とアルファ血清に改変された遺伝子は、通常のそれとは決定的に情報濃度が違うわ。通常空間において比類なき情報濃度は、そのまま比類なき存在値へと変換される。今となっては才羽数人の判断は英断ね。ただ一人アルファ血清を投与されたあなたは、この世界で唯一無二の存在へと変質した。並大抵のものではあなたを消し去ることはできない。だって、濃度が違うもの。そよ風は鋼を砕けないの」
「……もうちょっと、わかりやすく」
「そよ風は鋼を砕けないの」
女は嗤う。説明はすれど、理解まで面倒は見る気はないようだ。試すような嗜虐的な笑みは、LIEに縛られた私の感情を揺さぶった。
LIEの耐久テストでもしているのだろうか。この女は嫌なやつだ。とりあえず、それはわかった。
「才羽ちゃん、答えなさい。あなたはどうして生きてるの?」
「どうしてって、生きてるからだけど」
「何を望み、何を願い、何を求めて。何を諦め、何に涙し、何に打ち砕かれ。何に喜び、何を失い、何を支えに立っているの? あなたという人間めいた一個存在は、どうして生まれてきて、何のために生きて、どこへと向かい、どんな結末を迎えるの? あなたの命は何を刻むの?」
「……あんた、何言ってんだ」
「キャラメイクよ。本当は才羽数人の仕事だけど、こうなってしまっては仕方ないことだわ。同僚のよしみでそれくらいの面倒は見てあげる」
何もわからない。この問いの意味も、意図も、答えも。
わかるわけがない。私が何者なのかなんて私が一番探し求めている。
私はかつて私だった。才羽海音として生きた一人の人間だった。
だけど今となっては、私は私を失った。体も心も、何もかもをいじくり回されて、ここには才羽海音の記憶だけが残っている。
こんな体で壊れた世界に投げ出されて、信じられるものもなく、ただ才羽海音の残滓にすがるように父を求めている。
自分でも思う。私は一体何をしたいんだ。父に会って、話して、それで一体何になるんだ。
私はあの人を父と呼べるのだろうか。
才羽海音として、うまくやれるのだろうか。
LIEの調子が悪い。封じられたはずの感情が揺さぶられる。
鎌首をもたげたのは巨大な不安だ。他人のことも、自分のことも、今の私には何一つ信じられるものがない。
拠り所のない不安は炎となり、私の心をチリチリと焦がした。
「知ってるなら教えてよ……」
絞り出すような声が出た。
わからない。何もわからない。だけど私は、答えが欲しい。
「私は一体何なんだ。才羽数人は、どうして私をこんな風に作り変えた!」
そこに、損得の計算はなかった。
駆け引きは頭から飛んでいた。この女の腹の中を探る余裕はなかった。軽薄な笑みの裏に隠されたものを考慮できなかった。
今まで積もり積もった鬱憤だとか、ずっと無視してきた不安だとか。そういったものに突き動かされて。
本能的に、感情を叩きつけた。
「最初っから何もかも意味分かんないんだよ! なんで二十年後に目が覚めた! どうして私はここにいる! 私がいた世界はどうなったんだよ……! 父さんは、私に何をさせたいんだ! いい加減教えろよ! 私は一体なんなんだ!」
封じ込めていた感情が噴出する。頭の中で火花が散る。本能がLIEを飲み込んで、頭が白くなって、もう何もわからない。
ひどく頭が痛い。目がチカチカする。喉が裂けそうだ。
「何がしたい?」
女は短く訊いた。
彼女の顔に感情はなかった。抜け落ちたような無表情。丸い瞳が、射抜くように私を向く。
そこにあるのは完全な空白。何一つ感情を宿さない、機械めいた無表情。それが無性に腹が立つ。
鏡があるのかと錯覚した。わかってしまったのだ。これまでの私は、ずっとこんな顔をしていたんだと。
時折笑みを貼り付けようと、裏にあるのは色のない感情だ。何を見ても心動かすこともなく、淡々と機械のような冷静さを保ち続ける。
心無い機械が人間の真似事をしていたら気味悪く思うだろう。
自分もそうだと突きつけられて、心の底からムカついた。
「才羽ちゃん。あなたは今、何がしたい?」
重ねての問い。何も考えずに答えた。
「今すぐあんたをぶん殴りたい」
「いいわね。すごくいい」
女はくすくすと嗤う。彼女の瞳には、わずかに好奇の光が宿っていた。
「それから……。父さん、というか、クソ親父。何の説明もなく人の体を好き勝手しやがったクソ親父もシメる。何が最愛の娘だ、クソ。ふざけるのもい加減にしろ」
「素敵ね。是非ともやりなさい。個人的にも、才羽博士のすまし顔が歪む様はとても興味があるわ」
「それと、もう一つ」
深い考えはない。本能のままに言葉が出た。
「……私は、たぶん、あの子たちに謝らないといけない」
真白と、夜兎。きっと私はあの二人を傷つけた。
それには理由があった。私には真白を信じない理由があって、夜兎を利用する理由があった。そうするのが妥当だと判断していた。
あの状況ではそれも正解だったのかもしれない。私は生き残るための最善を尽くしたつもりだ。
だけど、そのために採った手段は間違っていたのかもしれない。
「何も信じられなかった。ただ利用するつもりでいた。利用価値がなくなれば殺そうとすら考えた。それは生き残るためには必要なことかもしれない。それでも……。私は、そんなことしたくない。そんなことを考えていた自分が嫌いだ。だから」
自分でもわかる。今この胸に渦巻いている感情は一過性のものだ。
LIEが復調したら、私はまた感情を縛られる。あの凍てついた私が戻ってきてしまう。だから今、刻み込むように、必死に言葉に変えた。
「ちゃんと会って、話がしたい。私の頭にあるものについて話したい。あの子が隠してることについて聞きたい。何も知らないままなんて、そんなの嫌だ」
「ふうん。あなた、結構普通なのね。面白くないわ」
「普通で悪かったな」
「よかったわね、それがあなたよ。無駄に考え込むくせに結局は情に流される、いわゆる普通の子。こんな世の中で真っ先に死ぬタイプね。モブよ、モブ。なんの面白みもない人間だわ」
「そこまで言う?」
「LIEに感謝なさい、それがなければとっくに死んでたわ」
「やかましいわ」
言葉に代えると気持ちは落ち着いた。意識するほど頭は冷え込み、冷たい私が戻ってくる。
それでも、胸に残ったものはあった。
目的をアップデートする。とても非合理的で、すこぶる無意味なものに。
それでもこれは、今の私がどうしてもやらなければならないことだ。
「……おいあんた。一応、礼を言っておく」
「あらあら、本当につまらないことを言うわね。私と仲良くする必要はなくってよ? お子様はお子様同士でよろしく乳繰り合ってなさい」
「こっちだって願い下げだ。なんなんだよ、あんた」
女は嗤う。本当に、この女は何者なんだ。
突然現れて、よくわからないことをのたまって、謎掛けめいたものを投げかける。
少なくとも敵意はなさそうだが、味方と呼ぶには不気味すぎる。わけがわからない、としか言えなかった。
「青少年のお悩み相談コーナーが終わったなら、こちらの本題に入ってもよろしいかしら?」
「私に用が?」
「用がなければお子様の面倒なんて見ないわよ。子どもは嫌いなの」
「子どもにも嫌われるタイプだよ、あんたは」
「それだけじゃないわ。私は人類に嫌われてるの」
こいつは魔女だ。そう呼ぶことにした。
「才羽ちゃん。あなた、女の子を見ていない?」
「どういう子?」
「そうねえ、背格好は中学生くらいかしら。あなたによく似た面白みのない子よ。精神的にも肉体的にも目立ったところはないし、何より諦めが早い。こんな状況だと簡単に死んじゃいそうなタイプね」
「ああ、それなら――」
真白のことか。
この魔女と真白にどんな接点があるのかは気になる。これを交渉材料に、魔女の目的を探れるかもしれない。
「それと、もう一つ。見てると殺したくなるわ」
「……は?」
女の言葉に、息を呑んだ。
「一見すごーく普通に見えるのに、思わず殺したくなっちゃうような女の子。施設のどこかにいるはずなのだけど、もし見かけたら教えてくれる?」
そんなのもう真白以外ありえない。だって私は、あんなにも真白を殺そうとしていたのだから。
それはLIEの合理的かつ非人道的な判断によるものだと判断していたのだが――。それだけではないのだとしたら。それこそが、真白の特性だったとしたら。
一つ、思い当たることがある。
夜兎は。
あの時夜兎は、どうして真白を殺そうと提案した?
「まさか……」
もしもこの殺意を抱いていたのが、私だけではなかったのだとしたら。
夜兎やギルガメッシュも、真白に殺意を抱いていたのだとしたら。
それは、つまり――。
「おいあんた……。あの子は……。如月真白は、何者なんだ……?」
「うふふ。うふふふふふ。そう、あの子、如月真白って名乗ったのね。それはそれは、とてもとても、とーっても面白いわぁ」
「答えて。あの子は一体何なんだ」
「そうねえ。教えてあげるのは簡単だけど、それでいいのかしら? あなたが話し合うことにした子って、その如月真白じゃなかったの?」
それはそうだ。聞きたいことは真白に直接聞けばいい。そうすると私は決めた。
だけど……。なんなんだ、この胸騒ぎは。なんなんだ、このとてつもない悪寒は。
そこに踏み込んでしまったら、もう二度と元の関係性には戻れない。私と真白の決定的な分岐点になってしまう。そう思えてならないのだ。
「でも、お姉さんから一つだけ忠告してあげる。あの子には近寄らないほうがいいわよ。あの子がその気になったなら、いくらあなたでも簡単に死んじゃうでしょうから」
「……意味がわからない」
「それならもっと直接的に言ってあげましょう。あの子と戦うなら不意打ちが一番ね。それでも殺し切るのは難しいでしょうけど、逃げる時間くらいは稼げるかもしれないわ。間違っても正面から挑んじゃダメよ」
「もういいわかった、黙ってろ」
この女はナチュラルにLIEの氷壁を貫いてくれる。人類に嫌われるとうそぶいていたが、あながち嘘でもなさそうだった。
「ああもう、またわけわかんないこと増えた……。もう十分だっつの、クソ」
「随分とご機嫌ね」
「うるせえよ。第一あんたもなんなんだ」
そう、この女もわけがわからない。なんだか色々話した気もするが、こいつのことはまるでわからない。気味が悪いほど煙に巻かれてしまっていた。
「あんた、そろそろ名前くらい教えてくれてもいいんじゃない?」
「いいの? それを聞くと、またわからなくなるわよ」
「いいから答えろよ。名前も呼べないんじゃ不便だ」
半ば投げやりに聞く。女は、我が意を得たりと頷いた。
「如月真白」
再び私は息を呑む。
「私の名前は如月真白。この施設の研究員よ」
女は――。如月真白と名乗った魔女は、にたりと嗤った。




