liar's LIE
冷ややかな沈黙と共に、夜兎は殺意を放っていた。
嘘や冗談なんかではない。衝動的な感情の発露ですらない。それが正しいことだと言わんばかりの静かで合理的な殺意。
彼女が真白に向けているそれは、私にも覚えがあった。
私とて如月真白を殺したい。あの女はどこかで殺す必要があると考えている。
だけど、それを表に出したことはないはずだ。
夜兎はどこかで私の殺意に感づいたのか。反応を見るためにこんな提案を投げかけたとすれば、理解はできる。
それとも――彼女は彼女で、如月真白を殺す動機があるのか。
「――って言うのは、冗談だけど」
重い沈黙を破る言葉は、取り繕うような音に聞こえた。
「如月真白には気をつけたほうがいいってこと。うん。嘘。殺す必要はない。ただの冗談。如月真白は仲間、だよね?」
「夜兎……?」
「あの子、私たちに隠してることあるよ。言いたかったのはそれだけ」
話は打ち切られた。離れていく夜兎の背中には、いかなる質問も拒絶する冷たさがあった。
単なる冗談だったとは思えない。少なくとも夜兎の殺意は本物のように見えた。だったら……。あの子は、何を考えている?
夜兎の殺意。如月真白の隠し事。解除されたロック。
付け加えて、XG-029とかこの研究所の闇とか。考えごとは頭の中を渦巻いて、段々とわけがわからなくなってくる。
それにもう一つ、わけがわからないことはあった。
「……私も、なんかおかしいんだよなあ」
気味が悪いほどに頭が冴え渡っている。生まれてこの方味わったことのない感覚だ。
あんなわけのわからないレポート一枚から、今起きていることに察しがつけられるほど私の頭は出来がよかっただろうか。
ゲノム編集技術や狂犬病といった、どこかで聞き覚えがある程度の知識がするりと出てくることにも違和感がある。
才羽海音は微分積分に血反吐を吐くような、ごく普通の高校生だったはずだ。それがどうしてこんなに頭が冴えているのだろう。
頭の奥はまだ冷えている。考えようと思えばまだ考えられる。もっと深く、この世界の暗闇へと切り込んでいける。
だけど、それを続けるほどに、私が私から離れていくような気がして。
「夜兎。ちょっと疲れた。寝てていい?」
「いたずらするかも」
「ぶっとばすぞ」
ひとまず、投げ出すことにした。
*****
手術台の上で目を覚ました。
目を覚ましたらいつもの自分の部屋だった、というわけにはいかなかった。
何もかも夢だったらどんなによかったか。相変わらず私は二十年後の滅んだ世界にいて、暗黒渦巻く施設の中に閉じ込められている。
現実ってのは嫌な奴だ。いつだって最悪を教えてくれる。
寝ぼけた現実逃避にいつまでも浸っていたかったが、早々に切り上げて体を起こすことにした。
「起きましたか?」
「真白……。おはよ」
「はい、私です。海音さん、寝てたのでそのまま手術台に放り込んじゃいました」
それは……。我ながらなんとも危機感のないことだ。
この状況で他人に触れられて目覚めないなんて、危機的状況にいるという自覚が足りていない。よっぽど疲れていたらしい。
「才羽海音。これ、手術ログ。概ね問題なしだけど一応見といて」
コールドマンのディスプレイには長々とログが吐き出されていた。
すべて英語で、寝起きの頭には中々入ってこない。ざーっと流し見た限り、SUCCESSの文字ばかりだったので、たぶん問題ないのだろう。
「……ちゃんと読んでる?」
「流し読みかも」
「昔の人は英語読めないって聞いた」
「バレたか」
夜兎の責めるような目に負けて、意識して読みなおす。それでも専門用語ばかりでほとんどわからないが、気になる記述がいくつかあった。
まず一つ、|Radiation dose《放射線量》。これは問題ない水準にまで低下していた。被曝も手術一発で治してくれるなんて、未来の医学は気楽なもんだ。
それからもう一つ、XG-029 Infection。これも気になっていた数字だ。
さて、私はどれくらい奴らの仲間になっているのだろう。
「……87%」
背筋が凍った。
87%。とても大丈夫な数字とは思えない。棺桶に片足突っ込んでるどころか、ほぼほぼ私はゾンビである。
「夜兎、これって」
「完全にアウト。お姉ちゃんはゾンビになった。もう手遅れ」
「でも私、ゾンビじゃない」
「そこが不思議。どうしてまだ生きてるの?」
どうして、と言われてもわからない。
レポートを見た限り、XG-029に汚染された人間は崩壊が進むはずだ。なのに、どうして私は生きている?
「付け加えるなら。如月真白からも高水準の数値が検出されていた。彼女の感染率は99.8%。あの子もまた、ゾンビの仲間」
「それって……。ええと、何? どういうこと?」
「わからない。ちなみに私は0%の健康体。君たち二人に突然襲われないかとドキドキしている」
「夜兎っておいしそうだよね」
「やーん」
真顔のやり取りである。冗談を言ってみたが、まったくもってそんな気分ではなかった。
あらためて自分の体を確認する。おかしな点もどこにもないし、それはコールドマンの手術ログから見ても明らかだ。
私は全くの健康体だ。なのに、感染率は極めて高い。
なんだこれは。どういうことだ。私の体に何があった。
頭が混乱してきたところに、もう一つ気になるログを見つけてしまった。
Logical Intelligence Enhancer - Running
Bio Moduleと銘打たれたカテゴリの中に、一文だけその記述は存在していた。
「お姉ちゃん。今、超指向性スピーカーを使って話しかけている。反応しないように聞いて」
距離感は変わっていないのに、耳のすぐ側で夜兎の声がした。
「このログは如月真白には見せていない。彼女に知らせるべきかはあなたが判断して。才羽海音。あなたには、一つの生体モジュールが埋め込まれている」
反応を押し止めるのは難しかった。
当然ながら、生体モジュールなんてものを埋め込まれた覚えはない。
「Logical Intelligence Enhancer――論理思考力増幅機。混乱や感情の発露を抑制し、思考力を大幅に増強する生体モジュール。生体モジュールの中でも、脳に埋め込むタイプの極めて特殊かつ危険な装置だ」
混乱や……。感情の発露の、抑制。思考力の大幅な増強。
身に覚えがある。
ありすぎる。
今更この違和感から目をそらすことなんてできない。
「この時代の医術を持ってしても脳は神秘の領域だ。生体モジュールを脳に埋め込むことは基本的には不可能とされる。だけど、抜け道が一つだけある。脳の培養について聞いたことは?」
あるはずがない。私は小さく首を振った。
「生体モジュールを埋め込んだ状態で脳を一から培養し、海馬に記憶を流し込んでから、脳を入れ替える。つまりは脳移植。倫理的には問題視され、技術的にも成功率は決して高くない、禁忌の術式だ。あなたにはそれを施された形跡がある」
心臓がどくどくと脈打ち始めた。
私の身に何かが起こっているのは察していた。だけど……。そうか。脳か。
私は、頭をいじられていたのか。
「脳に埋め込まれた生体モジュールは除去できない。あなたがどう思っているかはわからないけれど――」
――大丈夫、続けて。
声は出さずに唇だけを動かした。夜兎は私の言葉を正確に読み取り、小さく頷いた。
「LIEは脳用の生体モジュールの中でも有用性が高く、その分だけ危険性もある。メリットはさっき説明した通り、思考力の増強やパニックの抑制。デメリットは、人間的な感情の喪失」
パズルがはまるように違和感が消えていく。
とんでもないことを聞かされているはずなのに、頭は不足なく動いて情報を整理する。LIEの力を借りて。
「つまり、才羽海音。あなたは心の底から泣いたり笑ったりできないはずだ。私たちと話していたときも、胸の内では冷ややかに計算を続けていたはずだ。違う?」
――そのとおりだよ。
唇を動かす。夜兎は泣きそうな顔になった。
私が知る限り、彼女が感情を顔に出したのは初めてだ。
そう、夜兎には感情がある。バイオロイドだろうと、無表情の鉄面皮を被っていようと、この子にはちゃんと感情がある。
私とは違う。
それがどうしたのだろう。私の感情がないからって、どうして夜兎が泣く。
わからない。わかる必要もないと思った。
なるほど、LIE。いいじゃないか。
表ではそれらしく振る舞いつつも、腹の中ではどうやって仲間を殺すかばかり考える、私みたいな嘘つきにはちょうどいいオモチャだ。
自覚すると自分の内にわずかに残っていた熱のようなものが消えていく。違和感だらけだった思考が体に馴染んでいく。
納得した。してしまった。今の私はそういうものなのだと、受け入れてしまった。
「一つだけ言えることがある。LIEによる束縛は完全じゃないはずだ。感情を取り戻すためのトリガーは本能だ。強い本能を封じ込めるだけの力は、LIEにはない」
必要ない。LIEは使える。この生体モジュールは、生き残るために有用だ。
「聞いて、才羽海音。本能に身を委ねて。理性が介在する余地がないほど、強い衝動に身を任せればいい。そうすればきっと――」
「もういい。ありがと、夜兎。助かったよ」
にこりと微笑む。笑みを作る。夜兎はびくりと体を震わせた。
おかげでいろいろな疑問が氷解した。
私が冷静でいられるのも、やけに思考が冴え渡るのも。
合理性のためなら躊躇なく如月真白を殺そうとできるのも。
全てはLIEのせい。ならばもう、そういうものだと受け入れるしかないじゃないか。
受け入れるのは得意だ。順応するのは得意だ。適応するのは得意だ。
それが必要なことならば。




