2話
隣国へと足を踏み入れると、そこには静かな湖が広がっていた。
陽の光を受けてきらめく水面のそばには、草木が瑞々しく生い茂り、鳥のさえずりが穏やかに響いている。
それは、これまで見たこともないほど穏やかで、心を癒やす風景だった。
『ああ……こんな静かなところなら、きっと誰にも何も言われずに暮らしていけるわね』
そう呟いて、シンシアは微笑んだ。
そのとき、ふと視線の先に、年老いた夫婦が一生懸命に畑仕事をしているのが見えた。
額に汗を光らせながらも、互いに笑みを交わすその姿に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
思い切って、シンシアは声をかけた。
「すみません……私を、ここで働かせていただけないでしょうか?」
老夫は少し驚いたように顔を上げたが、すぐに申し訳なさそうに首を振った。
「悪いがね、わしらは二人で食べていくのがやっとなんだよ。人を雇うなんてとても無理な話さ」
それでもシンシアは諦めずに言った。
「いえ、お手伝いをさせていただいて……ご飯だけ頂ければ、それで充分なんです。それでも駄目でしょうか?」
老婦人が目を丸くした。
「本当に、それだけでいいのかい?」
「はい。どうかお願いします」
深く頭を下げるシンシアを見て、夫婦は顔を見合わせ、小さく頷き合った。
「だったら、うちは構わないよ」
「ありがとうございます!」
シンシアがほっとした笑顔を浮かべたその時、
突然、背後から喚くような声が響き渡った。
振り返ると、そこには大きな熊のような魔物が迫っていた。
「危ない!」
夫婦の悲鳴が上がる。
反射的に、シンシアは両手を前に突き出し、祈るように目を閉じた。
その瞬間、掌から眩い光が溢れ出し、大きな火群となって魔物へと飛んでいく。
轟音が響き、魔物はその場に崩れ落ちた。
恐る恐る近づくと、すでに動かなくなっていた。
老夫婦は呆然としながらも、やがて感嘆の声を上げた。
「ま、まさか……あなたは聖女様なのですか?」
シンシアは首を振り、かすかに笑った。
「いいえ。私は聖女のように人々を癒やすことも、大地に恵みをもたらすこともできません」
すると老婦人が、涙ぐんだ目で言った。
「何を言っているの。魔物から私たちを守ってくださったじゃないですか。それだけで、あなたは立派な聖女様ですよ」
その言葉に、シンシアの胸が熱くなった。
これまで否定され続けてきた《力》を、初めて肯定してもらえた、その喜びに、頬を伝う涙を止められなかった。
「辛いことがあったのね……」
老婦人の柔らかな声が、優しく包み込むように響いた。
こうしてシンシアは、老夫婦と共に畑仕事を手伝いながら暮らすことになった。
最初こそぎこちなかった会話も、日を追うごとに笑顔が増えていき、いつしか三人は家族のような関係になっていた。
夫婦には、かつてシンシアと同じ年頃の娘がいたという。
けれどその娘は、生まれて間もなく魔物に襲われ、命を落としたのだと静かに語ってくれた。
「……あの日、もう少し帰るのが早ければ……」
老婦人が悔しそうに唇を震わせる。
その手を、シンシアはそっと握りしめた。
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そんな穏やかな日々が三月ほど過ぎたある日、畑のそばに数人の貴族らしき男たちが姿を現した。
彼らは狩りのためにこの地を訪れたらしく、馬の手綱を引きながら賑やかに話している。
「ウィリアム殿下、まずはこの辺りに荷をまとめておきましょう」
「そうだな。食料もこの木陰に置いておけ」
「この森は魔物も出ると聞きます。くれぐれもお気をつけください」
その会話が風に乗って耳に届く。
殿下という言葉に、シンシアは小さく眉をひそめた。
『殿下……? ということは、この国の王子様なのかしら?』
彼女は手にした籠を握り直し、そっと視線を逸らした。
せっかく穏やかに暮らしているのだもの。関わらないほうがいい。
そう心に言い聞かせながら、シンシアは再び畑へと足を向けた。




