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別離

 俺は国分の店、『バッド・カンパニー』へは戻らなかった。

 あそこは、闇と光の境目である黄昏をふらふらと彷徨っていた頃の自分を思い出してしまう。

 俺は、東南アジアの言語を独学で勉強する傍ら、イタリアンレストランの皿洗いの仕事にありつき、今はそれで細々と暮らしている。

 佐藤と闇の中を駆けたのは、ほんの数週間前の事だが、まるで遥か遠い昔の事の様に思える。

 だから、TVのニュースで、徳山、金田、安東の3人が殺人容疑で逮捕されたというニュースを見ても、何の感慨もなかった。

「悪い奴が捕まって、よかったね」

 その程度の感想しかなかった。

 俺は、徳山逮捕に至る道程のどこかには居た。だが、俺は、まるで傍観者のように何もできず、何の役にも立たなかった。

 圧倒的な闇の深さに、ただ震えただけの男だ。俺の居場所はあそこには無い。それを思い知らされた日々だった。

 俺は、いつものように皿洗いのアルバイトを終え、家路につく。

 皿洗いの仕事は、単調で、つまらなくて、辛いけど、少しずつ貯金も出来、一歩一歩目標に向っている実感がある。

 刺激は無いが、充実はしている。


 コンビニエンスストアで煮汁が煮詰まってしまったようなおでんを久しぶりに買って帰ったある日、俺の住んでいるアパートに、見たことがある人物が立っていのが見えた。

 須加田だった。須加田は俺を見ると、駆け寄ってくる。

 嫌な予感がした。

「ああ、よかった。田中君。携帯電話が通じなくて、途方に暮れていたの」

 須加田がそんなことを俺に言っている。ポケットから、携帯電話を出すと、バッテリーが切れていて、液晶には何も映らなかった。

「バッテリー切れだったみたいだ。すまなかった」

 須加田は焦っている。

 彼女が何に焦っているのか知らないが、俺の嫌な予感は強くなるばかりだった。

「金田が、連行途中で逃げたらしいの。隠し持っていたナイフで刑事を刺して。金田の標的は佐藤よ。復讐する気だわ」

 須加田はかなり動揺している。佐藤を案ずるあまり、普段の冷静な判断力を失っているのだろう。

 俺なんかを頼るのがその証拠だ。

「佐藤の用心深さを知っているだろう? 金田がどんな奴かしらんが、大丈夫だよ」

 俺はそう言ってなだめたが、須加田は幼子のようにいやいやと首を振った。

「金田が襲ったのは、氏家なの。氏家を装って、佐藤をおびき出すつもりなんだわ。何度電話しても佐藤は出ないし」

 犯人を逮捕してワッパをかけるのは、警官にとって名誉なことだ。記録に残るし、表彰の対象にもなる。

 それゆえ、手柄があった警官にその役目を与えられることが多々あるそうだ。

 表向き、氏家は埋もれていた凶悪事件を探り当てた功労者ということになっている。佐藤が探り出した事実なのだが、佐藤は表に出る事は無い。

 氏家の携帯電話を使って佐藤を呼び出したのなら、確かにそれはまずい。

 氏家は捜査情報をゼニに替える悪徳警官だが、佐藤にとっては貴重な情報提供者だし、奴からのコールならば、佐藤は必ず出向いてくる。

 俺は氏家と佐藤が面談した場所を思い出していた。

 電気街に近い駅の喫茶店。場所も覚えている。

 俺は、ゴミ箱に持っていたおでんを捨てた。どうやら俺は、コンビニエンスストアのおでんは食べられない運命にあるらしい。

「一つだけ、心当たりがある。賭けてみるか?」

 俺の言葉に、須加田は頷いた。

 須加田とともに駅まで戻り、電車に飛び乗る。この時間は道路が混んでいるので、電車の方が早い。

 電車の中で、喫茶店の場所を須加田に説明する。佐藤が好んで使う席の位置も。

 須加田からは金田の情報が俺にもたらされた。金田は刃物にこだわる性質の男のようだ。血が好きで、刃物に性的興奮を感じるという告白もあった。 カウンセリング時の発言なので本当なのかわからないが。

 駅に着いた。階段を駆け上がる。

 喫茶店が見えた。中に佐藤はいるのか?

 俺と須加田は無言で左右に分かれる。須加田は、バッグから二十センチほどの筒を取り出し、一振りする。『カシャ』と、金属音がして、折りたたまれていた金属の棒が伸びる。それは、警官が携帯している『特殊警棒』だ。

 こんな物を往来で出したら銃刀法違反なのだが、金田は刃物を使う可能性が高いので、その対策ということだろう。

 俺は、寸鉄も帯びていない。身に染みついたボクサーの動きが俺の武器になる。

 この喫茶店は2か所出入り口があり、その2か所から同時に中に入って、佐藤の安全を確保する作戦だ。

 須加田と急遽作ったプランだが、果たして……。

 階段を駆け上がる。以前に来た時のままの内装だった。

 柱の陰、入り口から死角になる場所。俺は目を走らせた。佐藤はいなかった。反対側から走ってきた須加田と目が合う。そっちにもいなかったらしい。

 窓の外を俺は、何気なく見た。

地下にある駅から続く階段から、佐藤が上がってくるところだった。俺と須加田は、どこかで佐藤を追い抜いていたのだ。

 引き返す。

 喫茶店に近づけてはいけない。佐藤を止めなければ。

 階段を飛び降りる。膝と足首に痛みが走ったが構うものか。

 佐藤が俺を見た。

 驚いたようだった。

 元・用心棒の俺は佐藤ではなく、違和感のある動きを見ていた。

 人の流れとは異なる動き。

 佐藤へと接近する動き。

 居る。俯いて、足早に佐藤に接近する男。

 金田の特徴ある顔の輪郭と同じ。間違いない。本人だ。

 金田は、将棋の駒を逆さにしたようなゴツイ顔をしている。

 俺は叫んだ。

 運悪く、どこかでクラクションが鳴った。それに俺の声はかき消されてしまった。

 俺は必死に、佐藤へと接近する金田を指差す。

 佐藤はようやく異常に気が付いたようだった。

 俺の脚は、まるでコールタールの中を走っているようで、少しも佐藤との距離を縮めてくれない。

 金田が、短刀を懐から取り出し、鞘を払う。投げ捨てられた鞘が地面に当たって『カラン』と乾いた音を立てた。

 金田の高い頬骨が、汗で光っていた。

 二本の線を引いたような金田の細い目が、佐藤と同じ昏い炎を燃やしているようだった。

 金田の酷薄な唇が笑みの形を刻む。

 笑っているのではない。

 暴力に酔った時に人が見せる、醜い表情がそれだ。

 佐藤が体を捻って金田の切っ先を避けようとしていた。

 金田は、佐藤の動きに構わず、まっすぐ体ごと佐藤にぶつかった。

 思い切り体重をかけて。

 佐藤の体が一瞬浮き上がるほど。

 佐藤の顔が、笑っていた。いつもの、人を馬鹿にしたような笑いではなく、長年探していた物を見つけてほっとした時に漏れる様な笑みだった。

 避けたのか? 俺はそう思った。否、そうあってほしいと願ったのだ。

 金田が佐藤から離れる。佐藤の白いワイシャツのわき腹は真っ赤に染まっていた。

 くそっ! くそっ! 俺の願いは届かなかった。いつだってそうだ。

 一度離れた金田がもう一度、佐藤にぶつかる。今度は佐藤の顔に苦悶の表情が浮かんだ。

 悲鳴が聞こえた。

 長く尾を引く須加田の悲痛な叫び声だった。

 通行人も異変を漸く察知して悲鳴があがる。

 金田が再び体を離した。もう一度刺す気だ。

 かっと俺の頭に血が昇った。

 金田を打ち抜く。

 俺はその時、それしか考えていなかった。

 俺の拳は栄光を掴み損ねた。それどころか、他人の夢さえ砕いてしまった。「いい拳だ」と褒められたのに、俺の拳は何も生み出すことが出来なかった。

 だから、一度でいい。たった今、一度だけでいいから、何か人の役に立つことをして見せろ。俺はそう強く念じていた。

 二度とボクシングが出来なくなってもいいんだ。

 この悪意を打ち抜く力が欲しい。

 俺は生まれて初めて、強く、とても強く、神に祈っていた。

 俺は、右の拳から飛び込む様にして、金田をぶん殴る。金田はよろけて、もう一度佐藤を刺すことは出来なかった。

 獣の唸り声をあげて、金田が佐藤の血で真っ赤に染まった短刀を俺に突き出してくる。

 俺はそれを頭を振って躱した。身に染みついたヘッドスリップというボクシングの動きだ。

 同時に、左のボディを打つ。

 俺が得意にしていた、地面から突き上げるようなピックアップアッパー。それが無意識に出ていた。

 金田が短刀を取り落とし、体をくの字に折ってげぇげぇと吐く。

 俺は胸倉をつかんで金田を引きずり立たせた。

 金田の体から汗が匂った。

 饐えたような反吐の匂いもした。

 そして、金田は俺を見て、ニヤリと笑ったのだった。「お前に何が出来る?」金田の細い目は、そういっている様だった。

 砕く。

 悪意を砕く。

 一生に一度なら、俺みたいな半端者でもそれが出来るはずだ。

 腰がギュンと回る。捩じった背筋にパワーが蓄えられた。

 鉤形に曲げた右腕を思い切り後ろに引く。

 背筋が限界まで引き絞られて、ギチギチと軋み音を上げているようだ。

 それを一気に開放する。

 体重が思いっきり乗ったフックが、打ち降ろし気味に放たれた。

 俺の拳は喰いしばった金田の下顎を砕いた。

 怒りでリミットが外れていたのか、予想以上の力が瞬間的に出た俺の拳も、『メリッ』という音を立てて潰れた。加減なしで打ち抜いたのだ。それは当然の結果ではあった。

 金田は棒のように倒れて、ガードレールに側頭部をぶつけピクリとも動かなくなった。金田は今後、お粥しか食べられないだろうが、知った事か。

 俺は、腹部を真っ赤に染める佐藤の傷に左の掌を当てた。右の拳……ボクサーの命ともいえる拳は、靭帯が切れたか、骨が折れるかして、全く力が入らなかったのだ。

 俺の掌の下から、どんどんと血は流亡し、それと同時に佐藤の生命も流れ出てゆく。

 野次馬の中に、写メを撮っているバカがいた。俺はそいつを睨みつけ、

「救急車!」

 と叫んだ。そいつは、あわてて携帯電話を操作しはじめた。

「廃工場の資料だけど」

 かすれた声で佐藤が言う。

 ああ、なんてこった。佐藤の顔に死の色がある。

「廃工場の資料だけど」

 俺は佐藤の口に耳を近づけてその声を聞き取ろうとした。

 佐藤の口から、血があふれる。もう、噎せる力もないようだ。

「廃工場の、資料、だけど、君に委ねたい。ぜんぶ、あげる」

 佐藤の色が抜け落ちてしまった唇が震えた。笑ったのかもしれない。

 ああ……、なんてこった……、死ぬのか? 佐藤が? あの不遜な男が? 荒事師に襲われても平然としていたあの佐藤が? 

「ありがとう。さようなら……」

 それが、佐藤の最後の言葉だった。

 遠くで救急車のサイレンの音が聞こえた。

 今、この路上は時が止まってしまったかのように、ただ静かだった。


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