91.大河さんが居ません
お風呂から上がった私は、スマホを見てギョッとした。不在着信が十件近く。こんな事は初めてだ。
確認してみると、その全てが大河さんからだった。急いで掛け直そうとした時、突然スマホが震え出した。大河さんからだ!
『冴香!? やっと出た……。お前、今まで何していたんだよ!?』
電話に出た瞬間に、大河さんに怒られて少しムッとした。こっちはラインを送ってから、ずっとスマホを片時も離さずに連絡を待っていたのに、一向に音沙汰が無く、仕方なく先にお風呂に入ったのだ。何度も掛けてきてくださっているとは言え、随分遅れてからの連絡である上に、初っ端から怒るなんて理不尽じゃないか?
「すみません。ラインを送ってから、ずっと大河さんからの連絡を待っていたんですが、待ち切れなくなってしまって、先にお風呂に入っていたので出られませんでした。」
少しだけ嫌味を混ぜて答えると、電話の向こうで溜息を吐いた気配がした。
『悪い。けど冴香、お前、何で出て行っちまったんだよ? ……祖父さんの婚約解消の話、本当に了承しちまったのか?』
落ち込んでいるような大河さんの声に、私はすぐに返事する事が出来なかった。
いくら天宮会長に言われたとは言え、あれだけお世話になっておきながら、黙って出て行くなんて、やっぱり礼儀知らずで酷い女だと思われても仕方がない。
「すみません……。ラインでも送ったのですが、もし良ければ後日、改めてお会いして、直接お話しさせて頂けないでしょうか?」
お願いだから、もう一度だけでも会って欲しい。そう思っていると。
『……分かった。』
何だか更にトーンが落ちたような大河さんの声。
やっぱり怒っていらっしゃるのかな、と落ち込みつつも、会う事は了承して頂けたので、少しだけ安堵する。
『後日って何時だよ? 俺は明日朝一で出張なんだ。金曜まで帰って来れない。もう遅いけれど、今からでも会えないか?』
大河さんの言葉に狼狽した。
そんなに間が空いてしまうんだ……。どうしよう。
だけど、今日はもう遅い。私は兎も角、大河さんは明日早いのだったら、日を改めた方が良いんじゃないだろうか。
それに、下手をすれば、これで大河さんにお会い出来るのが最後になってしまうかも知れないのだ。そんな時は少しでも遅らせたかった。まだ、心の準備が出来ていない。
ついでに言わせてもらうと、まだ先程の瞼の腫れが引いていない。こんな酷い状態の顔で、最後にお会いする事になるかも知れないだなんて事態は、出来れば避けたい、という私の個人的事情が……。
……と言う訳で、すみません。
「今日はもう遅いですし、大河さんも明日朝早いのなら、もうお休みになられた方が良いのではないでしょうか? ……私も、今日は色々あって、疲れてしまいました。」
多少の罪悪感を覚えながらも告げると、再び大河さんが溜息をついた気配がした。
『……そうか、分かった。じゃあ、金曜で良いか?』
「はい。大河さんがお疲れでなければ。」
『分かった。また連絡する。』
電話を切って、私も溜息をついた。
これから、一週間は大河さんに会えないのか。……ううん、そんな事を言っている場合じゃない。一人の生活に、早く慣れなければ。
そして、大河さんと本当にお別れしてしまう事になっても良いように、心の準備をしておかなければ。
短いような、長いような。そんな不思議な感覚の一週間が過ぎて行った。ジュエルでアルバイトをしている間は、いつも以上に仕事に集中し、身体を動かす事で、余計な事は考えずに済んだけれども、新しい家での生活は、やはり簡単には慣れなかった。誰も居ない、真っ暗な家に帰り、一人でご飯を作って、一人で食べて、一人で過ごす。
一人分だけのご飯を作るのは面倒だな、適当に済ませようかな。そんな考えが頭を過る度に、思い出すのは大河さんの事だ。痩せ過ぎだからと言って、執拗な程にまで色々食べさせようとしてくれていた。何時も私の食事を心配してくれていたな、と思い返す度に、もう傍にはいない事を痛感して、悲しくなる。
せめて、お会いした時に心配を掛けないように、食事だけはしっかり摂ろう。そう心掛ける事は出来たものの、結局は一人である事にも慣れず、心の準備すらも出来ないまま、金曜日を迎える羽目になってしまった。




