90.出て行った冴香
88~89話、大河視点です。
翌日の日曜日、俺と冴香は祖父さんの家を訪れていた。客間に通されたものの、二階堂が俺に話があると言うので、冴香一人をその場に残し、俺は二階堂の後に付いて行く。
別室で二階堂と共に、堀下工業倒産後の対応、従業員達の再就職先の振り分け等を打ち合わせると、俺は再び客間へと戻った。客間には冴香の姿は既になく、祖父さん一人だけだった。
「祖父さん、冴香は?」
「お前に話がある。そこに座れ。」
有無を言わせぬ祖父さんの物言いに、俺は眉を顰めながらも、示された座布団に座る。
「お前と冴香さんとの婚約と同棲は、今日を持って解消する事になった。お前の事も随分、色々と振り回してしまってすまなかったな。」
「は……?」
珍しく俺に頭を下げる祖父さんに戸惑いながらも、俺は祖父さんが何を言っているのか分からなかった。
「冴香との婚約の解消……って、どういう事だよ!? 祖父さん!!」
「どういう事も何も、そのままの意味だ。説明するまでも無かろうが。」
淡々とした祖父さんの態度に、俺は頭に血が上った。
「ふざけるな!! 無理矢理婚約させておいて、今度は勝手に解消だと!? 人を振り回すのもいい加減にしろよ!!」
「だから、すまなかったと言っている。今回の事は、お前達の気持ちも考えずに、自分の願望を押し付けてしまっていた私が悪い。だから冴香さんとも話をして、婚約は解消する事にした。これでお前も漸く清々した事だろう。」
「何……だって……?」
祖父さんの言葉に、俺はショックで青褪めた。
冴香と話をしたって事は、冴香は婚約解消を受け入れたっていう事なのか? 俺の気持ちは知っている筈なのに?
ぞわり、と嫌な予感が背筋を冷やした。ここで冴香を逃したら、永遠に会えなくなってしまうような。
「顔色が悪いな。何を青褪めている? 元々お前は、この婚約に猛反対していただろう。婚約解消は、お前にとって、待ち望んでいた話ではないのか?」
祖父さんの問い掛けに、俺はギリ、と唇を噛んだ。
確かに、最初はこの婚約は嫌で嫌で仕方がなかったさ。俺の意思を無視して、勝手に決められた婚約なんてクソ食らえと、冴香にも八つ当たりをしてしまったくらいだ。だけど、冴香と一緒に過ごすうちに、冴香は俺にとって、かけがえのない存在になっていったんだ。今更婚約解消なんて、そんなの納得出来るかよ!!
「……冴香は何処だ。話をさせろ。」
殺意を覚える程の視線を祖父さんに向けたが、百戦錬磨の祖父さんはそれくらいでは動じない。
「本城と一緒に、お前の家に向かわせた。今頃は引っ越しの荷造りを終えている頃だろうな。」
祖父さんの言葉を聞くが早いか、俺は客間を飛び出した。車に飛び乗り、猛スピードで自宅を目指す。
クソ!! 祖父さんにしてやられた!! まさか今日引っ越しをさせるとは!! 頼むから間に合ってくれ!! 行くな、冴香!!
家に辿り着くまでの道のりが酷く長く感じられた。おそらく自己最短記録でマンションの駐車場に滑り込み、通路を全力疾走して玄関のドアを開け放つ。
「冴香!!」
家の中は人の気配が無く、俺の叫びに答える声は聞こえなかった。自分の靴を脱ぐのももどかしく、急いで上がろうとした俺は、足元を見て目を見張った。
家を出た時には確かにあった、冴香の靴が無くなっている。
そんな、まさか、という思いを懸命に打ち消しながら、俺は無人のリビングを通り抜け、冴香の部屋のドアを乱暴に開けた。主が居ない部屋のクローゼットを抉じ開けた瞬間、俺は息を呑んだ。
クローゼットの中は、空っぽだった。
「……嘘だろ……。」
俺はその場に崩れ落ちてしまった。
間に合わなかった。冴香は出て行ってしまった。何処に行ったのかも分からない。
……いや、待て。まだ何か方法はある筈だ。落ち着け俺。祖父さんや本城を問い詰め……違う。冴香に直接居場所を訊けば良いだけじゃないか。何を慌てているんだよ。
少しばかり冷静さが戻り、スマホを取り出しながらリビングに戻った俺は、ダイニングテーブルの上にある白い封筒に気が付いた。宛名は俺、裏には冴香の名前。
冴香からの手紙!
俺はすぐさま封筒を破り捨て、食い入るように手紙を読んだ。内容は、今までの感謝と、挨拶も無く家を出て行く事への侘び。
そんな……じゃあ、冴香は本当に、婚約解消を了承したって言うのか!?
手紙を握り締めたまま、呆然とへたり込んでしまった俺は、帰って来た敬吾と凛に指摘されるまで、冴香からのラインには気付かなかった。




