89.必ずお会いします
その後、会長宅をお暇した私は、本城さんに送ってもらって、大河さんの家に戻った。本城さんに勧められるままに、自分の荷物を纏める。服や靴、その一つ一つを手に取る度に、涙が零れそうになる。この家に来た時に私が持って来た物の殆どは捨てて、大河さんに新しく買い替えて頂いた物ばかりだから。
未だに現実感がなく、ぼうっとする頭で、泣きそうになりながらも、何とか荷物を纏め終える。冷蔵庫の中の買い置きの食材や、作りかけの料理が気になるが、それはきっと、今凛さんとデート中で不在の敬吾さんが何とかしてくださるに違いない。
最後に、大河さんに手紙を書いた。今まで大変お世話になり、ありがとうございました、と。せめてきちんと顔を見て、直接自分の口から感謝の気持ちを伝えたかったと思いながら。
本城さんが連れて来て下さったマンションは、大河さんのマンションよりも小ぢんまりとしていたが、それでもやはり新しくて綺麗だった。そのうちの一室に案内されて中に入る。家具は備え付けで、必要最低限の物は既に揃っていた。部屋に荷物を運び入れてくださっている本城さんを見ていると、どうしても大河さんの家に引っ越した日を思い出す。
あの日は、漸く安住の地を得られるかも知れない、という安堵と期待と、だけどきっと歓迎されてはいないだろう、という不安の入り混じった気持ちでいた。だけど今は、悲しみしかない。目の奥が熱くなるが、まだ感情を吐き出す訳にはいかないと、ぐっと堪える。
引っ越しが終わり、部屋の鍵を渡してくれた本城さんにお礼を言って見送ると、私はフラフラとした足取りで寝室に向かった。ベッドに倒れ込むと、今まで我慢していた分まで、一気に涙腺が崩壊する。
本当は、もっと大河さんの傍に居たかった。何の根拠もなく、まだ一緒に居られるものだと勝手に思い込んでいた。私達の関係は、自分達で願ったものではなく、所詮は天宮会長に決められたものでしかなかったのに。
せめて、きちんとお別れの挨拶は言わせてもらいたかった。まるで夜逃げのように出て行く事になってしまったけれど、大河さんは恩知らずだと気を悪くしていないだろうか。家事を引き受ける事を条件に、赤の他人に等しい私を家に置いてくださった大河さん。家事が苦手だから、私が居なくなって困らないかな。
……困る訳ないか。今まで私が居なくても一人暮らしされてきたのだし、今は敬吾さんと凛さんも居る。あのお二人が何時まで大河さんの家に泊まられるのかは知らないけれど、少なくとも大河さんが、私が居ないから困る、なんて事態にはならないだろう。
困るのは、私だけだ。私一人しかいない家。嫌でも孤独を痛感させられる。泣き終わって部屋を出ても、慰めてくれる人はいない。抱き締めて、頭を撫でてくれる、あの大きくて温かい手ももうない。これからは私一人。一人で起きて、一人でご飯を食べて、一人で家を出て……。
絶望の中でひとしきり泣いた私は、漸くフラリと立ち上がった。洗面所に行って鏡を見てみると、やはり泣き腫らした酷い顔をしている。
泣いていたって始まらない。これからは一人なんだから、今まで以上にしっかりしなくっちゃ。
頭を横に振り、両頬を叩いて気合を入れた。泣くのは今日だけにしたいと、無理矢理これからの生活へと思考を巡らせる。
ジュエルから近いこの家は、つまり大河さんの家からもそんなに離れてはいない。行き慣れたスーパーや商店街等、生活圏も左程変わらないから、家の環境にさえ慣れれば、後は何とかなるだろう。心残りなのは、大河さんの事だけだ。
後日、何とかして大河さんの時間を少しでも頂いて、直接今までのお礼をお伝えしたい。手料理を持って行ったら、喜んでくれるかな? 大河さんはモテるから、すぐに新しい彼女さんが出来るだろうけど、それまでは時折手料理を差し入れても構わないかな……?
スマホを手に少しばかり逡巡し、もしまだ会長宅で打ち合わせをしているのなら迷惑になるだろうと、電話を掛けるのは止めて、大河さんにラインを送った。
きっと、少なくともあともう一度だけは、必ず大河さんに会える筈。そう信じて。




