82.冴香の涙
大河視点です。
「冴香、本当にあれで良かったのか?」
堀下家から帰る車の後部座席で、俺は隣に座る冴香に尋ねた。
まだ腹の虫が治まらない。冴香や凛から聞いていた通りの、本当に最低な奴らだった。
「二階堂の報告書は、お前も見た通り、証拠能力は十分にある。長年お前をずっと虐待し続けてきたあの二人を、警察に突き出してやる事も出来たんだぞ?」
あんな腐った連中は野放しにせず、刑務所にでも何でも放り込めば良いんだ。そう考えていたが。
「良いんですよ、あれで。」
冴香は前を向いたまま答えた。その表情は、ずっと険しかった行きとは違い、無表情になっている。先程の余韻がまだ残っているのか、その視線はいつもよりも冷たかったが、何処となく哀愁を感じさせていた。
「さっきはああ言いましたが、私は警察に行く気なんてさらさらありません。事情聴取等で、思い出したくもない事を根掘り葉掘り訊かれるなんて御免です。それに、仮に警察に突き出して、罪を償わせようとした所で、あの二人が本当に更生するとは、とても思えません。寧ろ、自分達を訴えた私を逆恨みし、法律が定めた贖罪が終わり次第、これまで以上に敵意を持って、私を襲って来るでしょう。それこそ、先日の階段の件のように、どんな手を使ってくるか分かりませんから、その方が余程危険です。あの二人は無駄にプライドが高く、自分達の行為が表沙汰になる事を何よりも恐れていますから、こちらが絶対的な証拠を握っていて、何時でも公表出来る体制なのだと脅しをかけておいた方が、手を出したくても出せなくなるので、却って効果的なんですよ。」
冴香の説明に、俺は納得した。
確かに、あの二人なら法で裁かれた所で、反省するよりも冴香を逆恨みしそうだ。冴香を傷付け続けてきたあんな連中は、完膚無きまでに叩き潰してやりたいし、万一何かされそうになっても、冴香を守る事など、天宮財閥の力を以てすれば造作もない事だ。だが、四六時中護衛を付けるのは、冴香が良しとしないかも知れない。それに何よりも、当事者である冴香がそれで納得しているのなら、と俺は憤りを飲み込む事にした。
「それに、凛さんが教えてくださった鑑定結果のお蔭で、あの二人の憎悪の矛先は変わっていくでしょうから。これからは異母姉……いえ、義姉は継母を感情的に受け付けられなくなるでしょう。継母は義姉を凄く可愛がっていましたから、大層ショックを受け、可愛さ余って憎さ百倍になるのは時間の問題です。すぐに私の事など忘れて、親子でいがみ合うようになりますよ。似たもの親子ですから、一度関係が拗れると、きっと修復は不可能でしょうね。」
「そうね。今回の目的は全て果たせたし、これからは冴香ちゃんも安心して過ごせるわ。……なのにどうして、そんなに浮かない顔をしているの?」
助手席の凛が振り返り、心配顔で冴香に問い掛ける。運転席の二階堂も気にしているようだ。
冴香は視線を下に落として、おもむろに口を開いた。
「私……、あれだけ最低な連中だって分かっていながらも、まだ心の何処かで、ほんのちょっとだけ、期待、していたみたいです。虐待を告発しても鼻であしらわれるだけだろう、とは予想していましたが、第三者の前で、証拠を突き付ければ、もしかしたら、たとえ口先だけでも、反省して謝るくらいはしてくれるんじゃないかって。それに……。」
表情が分からなくなる程、冴香は深く項垂れた。
「父が私を全く気にしてくれなかった事が、どうやらショックだったみたいで。元々家庭を顧みない父ではありましたけど、私、父の事は嫌いじゃなかったんですよ。母を亡くして路頭に迷う寸前だった私に、手を差し伸べてくれましたし、あの二人も父が居る時だけは、何もしてきませんでしたし。凛さんに教えて頂いた切り札も、父を巻き込んで傷付ける事を考えれば、出来れば使いたくなかったんですけど……。今日の遣り取りの中で、父は本当に自分の事しか考えていなかったんだなあって、改めて思い知らされまして。私が虐待されていた事を知っても、大河さん達のご機嫌取り、継母に騙されていた事を知って己の怒りをぶつけ、返済の請求に慌てふためくだけ……。何一つ、私を気遣う素振りはありませんでした。父だけは、そんなに悪い人じゃないって思って……いえ、私が思いたかっただけなのかも知れませんね。本当あの人、何の為に私を引き取ったんだろう……。何時かこうして、私をお金と引き換える為だったんでしょうか……。」
両手を握り締める冴香の膝が、ぽた、ぽた、と濡れていく。見ていられなくなった俺は、冴香を抱き寄せた。
「冴香、前に言っただろ。泣きたかったら、変に我慢しないで、素直に泣けよ。」
冴香からは何の返答もなかった。ただ俺のシャツを掴んで胸に顔を埋め、静かに肩を震わせる。俺はその華奢な背中を撫でながら、冴香の心中を思った。
ほんの少しくらいは、気にかけてもらえている。そう思いたかったのだろう。母親と死別してからは、誰一人味方のいなかった冴香にとって、唯一血の繋がった父親の存在は、毒にも薬にもならなかったとは言え、やはり特別なものだったに違いない。
だが今日改めて、その父親に露程も思われていなかったと思い知らされ、心底幻滅させられたのだ。
冴香も薄々分かっていたのかも知れないが、それでも傷付いたに違いない。誰からも愛されていなかったのだと、痛切に実感させられたのだから。
だけど、今は違う。俺が、俺達が、お前の事を愛している。
腕の中で静かに涙を流す冴香に、その気持ちが伝わるように、俺は冴香をきつく抱き締めた。




