26.人の気も知らないあいつ
25話、大河視点です。
暫くの間、冴香は俺の胸に顔を埋めて泣いていたが、やがて泣き声を上げなくなり、ゆっくりと胸から顔を離した。
「……すみません。やっぱりシャツ、濡れちゃいました。」
「良いって、気にすんな。そんな事より、もう落ち着いたのか?」
自分の事よりも俺のシャツを気にする冴香に、半ば呆れながらも尋ねる。
「はい。もう大丈夫です。ありがとうございました。」
思ったよりもしっかりした声で冴香が答えた。その口調に安心しながらも、涙を指で拭いながら顔を上げた冴香にはっとする。目が大分充血して少し赤く腫れていて、何を思ってこんなに大泣きしたのだろうと、俺は胸を締め付けられた。
と同時に冴香が一歩後ろに下がる。その行動が自分を拒否したように感じられて、思わず冴香を抱き締めていた俺の腕から力が抜けてしまった。腕の中にあった温もりが離れて行く。反射的に追い掛けて、もう一度取り戻したい、と思ってしまった。だけど。
「ケ、ケーキ、食べましょうか。」
そう言って冴香は背を向けてしまった。
少しだけでも開けてくれた心の扉を、再び閉ざされてしまったような感覚に陥る。一度は俺の腕の中で泣いた冴香だけど、落ち着いたらまた元通りだ。それどころか、ケーキを食べている間もずっと俯いていて、俺の方を見てくれない。急に泣き出した理由も訊くに訊けず、俺は薄ぼんやりとした世界の中で、味のしないショートケーキをひたすら口に運んでいた。
「……さっきはいきなり泣き出してしまって、すみませんでした。ケーキを……特にモンブランを食べるのは、久し振りなので、嬉しくて。モンブランは、母との思い出が詰まったケーキでもあるので、何だか涙が止まらなくなってしまいました。驚かせてしまいましたよね。すみません。」
下を向いたまま、冴香が口にした言葉に目を見張った。
そうか、こいつ、ケーキも……好物も碌に食べられなかったのか。確か冴香の母親は既に亡くなっていて、その時に冴香は堀下の家に引き取られ、こいつにとっては辛い日々が始まったんだっけ。モンブランを見て、色々思う所があったに違いない。
俺は冴香の気持ちを推し量りつつ、また堀下の奴らに腹を立てたが、それ以上に冴香がきちんと理由を話してくれた事の方が嬉しかった。たったそれだけの事なのに、急に周囲に鮮明さが戻り、ショートケーキの味をはっきりと感じる。
ああ、このケーキ美味いな。冴香も喜んでくれた事だし、これからも贔屓にしても良いかも知れない。
「……そうか。じゃあこれからは毎日、ケーキを買って帰って来てやるよ。」
そう口にすると、冴香は驚いたように顔を上げた。
「お前、ケーキ好きなんだろ? なら、これからは思う存分、好きなだけ食べれば良い。もうお前が色々な事を我慢する必要なんてないし、好きな事、したい事を思う存分すれば良いさ。」
もう我慢をして欲しくなく、自由を実感してもらいたくて、そう言葉を掛けると。
「……じゃあ、今朝お話しさせて頂いた、アルバイトもしても良いと?」
情けないが、一瞬言葉に詰まってしまった。
ええい、男に二言はねえよ。世間体も祖父さんも知った事か! 冴香がやりたいって言うなら、誰が何と言おうと俺が応援してやる!!
「ああ。お前の好きにすれば良い。」
そう告げると、冴香はぱっと目を輝かせて礼を言った。だがケーキは遠慮されてしまった。何故だ、と追究すると、体型の事を口にする。寧ろ太れと勧めると、折角人が心配してやっていると言うのに、セクハラだと忠告された上に余計なお世話だと言いやがった。おまけに可愛くないのは自覚済みだと。本当にこいつは人の気も知らないで!
……まあ、減らず口を叩ける程には回復したという事か。
ケーキを食べ終え、後片付けをする冴香を横目でちらりと盗み見る。
こいつに合うアルバイトって何だろうな。家事は得意だから、飲食店のバイトとかはどうだろう。あ、でも基本無表情だから、接客業には向いていないかな。それに最優先は家政婦業にしてくれるって言っていたから、平日なら昼間に絞られる。時間帯も考慮しないと駄目なのか。
……そう言えば、会社で営業のパートを入れようかっていう話になっていたな。確か勤務時間は朝の九時か十時くらいから夕方くらいまでの応相談。時給も悪くなかったし、何よりも俺と同じ職場なら何かとフォローしてやれる。これは冴香にとっても良い話なんじゃないか?
そう思って冴香に提案してみたが、即答、しかも全力で断られた。何故だ。




