運転免許を取得しました
「冴香、お前、運転免許を取ったらどうだ?」
「へ?」
ある日、朝食を摂りながら、新聞の折り込み広告に入っていた、自動車学校のチラシを大河さんに見せられた私は、何とも間の抜けた声を出してしまった。
「運転免許、ですか? 私の移動手段としては、大河さんに買って頂いた自転車がありますし、最寄り駅も近いですので、今の所は車の必要性を全く感じていませんが。」
「今はそうかも知れないが、この先必要になって来るかも知れないじゃないか。大きな荷物を買う時とか、少し遠出する時とかに、自分で車を運転出来たら便利だろう? それに、有って困るものでもない。銀行とかで、身分証明書として使えるんだからな。」
「それはそうですけど……。」
ふむ、と私は大河さんに渡されたチラシを見ながら考える。
確かに、大河さんの仰る通りだ。それに、今まで車で外出する時は、ずっと大河さんに運転してもらっていた。大河さんだってお疲れの時があるだろうから、そんな時くらいは大河さんに休んでもらって、私が代わりに運転してあげられるようになれたら良いなぁ。
だけど、取得費用もタダじゃない。二十万超か……。何だかんだで使い道のない、アルバイトの貯金があるとは言え、私にとっては大金だ。
「俺が費用を出してやるから、取ってみたらどうだ?」
「いえ、私の免許なので、私が出すのが筋でしょう。貯金もちゃんとあるので大丈夫です。あまり大河さんに甘え過ぎる訳にはいきません。」
ただでさえ、大河さんには服だの靴だの、色々買ってもらってしまっているのだ。いくら婚約したとは言え、大河さんは私を甘やかし過ぎではなかろうか。
私がきっぱりと断ると、大河さんは眉を顰めた。
「俺が勧めたんだから、俺が出す。良いから、お前は甘えていろよ。お前に甘えられた方が、俺は嬉しいんだよ。」
大河さんの言葉に、ちょっと顔が赤くなった気がした。だけど。
「お気持ちだけ有り難く頂いておきます。大河さんは嬉しくても、私は気が咎めますので。それに、自分で出したお金の方が、真剣に取り組めますし、万が一費用を出してもらっておきながら、何回も試験に落ちてしまったら、申し訳なくて大河さんに合わせる顔がなくなってしまいます。」
有り難く思いつつも断ると、大河さんは不機嫌そうに顔を顰めた。だが黙り込んでしまって反論がない所を見ると、どうやら納得はしてもらえたようだ。
「……分かったよ。その代わり、お前が免許を取ったら、絶対に俺が車を買ってやるからな。」
「ええ!? そんな高価な物をわざわざ買って頂く訳にはいきませんよ!」
免許取得費用より高額じゃないか! と私はギョッとして抗議するが、大河さんは涼しい顔で答える。
「いや、これは必要経費だ。そうだな、もし俺の車が外出先で故障した場合、お前に迎えに来てもらう時に必要になるだろうが。」
「それって、かなり可能性が低い話ですよね。」
「可能性は低いが、ゼロじゃない。お前に車を買ってやる事で、俺にもメリットがある。だからお前の車は俺が買う。」
「あるかどうかも分からないようなメリットの為に、どれだけ資金を支払うおつもりですか。コストパフォーマンスが悪過ぎじゃないですかね。」
「お前に迎えに来てもらう嬉しさはプライスレスだから良いんだよ。」
「はあ!?」
笑顔を見せた大河さんに、私は唖然としてしまった。多分今、顔が真っ赤になってしまっていると思う。
な、何なんですか。何処ぞのCMで流れていそうな、そのクサい台詞は。
「じゃあ決まりだな。どんな車が良いか、考えておけよ。」
楽しそうに笑う大河さん。
あ、しまった、抗議するタイミングを逃してしまった。
……まあ、流石に車を買うだけのお金は持っていないしなぁ。ここは有り難く、大河さんのお言葉に甘えさせてもらおうかな。だけど用途は、家事の為の買い物とか、大河さんが飲み会の時のお迎えとか、大河さんの役に立てそうな事に使おう。うん。そうでないと罪悪感が半端じゃない。
そんな訳で、私はアルバイトの合間を縫って、自動車学校に通う事になった。最初はおっかなびっくりだったけれども、次第に運転に慣れて何とか卒業し、無事に運転免許を取得する事が出来た。
「やったな、冴香! じゃあ早速、車を買いに行くか。どんなのが良い?」
大河さんに報告すると、密かに集めていたらしい高級車のカタログを見せられ、私は戦慄した。
「ちょっと待ってください! 私は免許を取ったばっかりの、超初心者なんですよ!? そんな人間にこんな高級車を運転させるだなんて! もし事故でも起こしたらどうするんですか!?」
「じゃあ、どんな車が良いんだよ?」
「傷を付けても凹ませても、まだ良心が痛まなさそうな、中古の軽が良いです。」
「却下だ! せめて新車にしろよ!」
「新車だと怖くて乗れません。」
私が拒否していると、大河さんは溜息をついた。
「仕方ねえな……。じゃあ、暫くは俺の車を運転して、慣れてからにするか。」
「ご、ご冗談を! 大河さんの高級車を運転するだなんて、心臓に悪過ぎて出来る訳が無いでしょう!」
大河さんの提案に、私は慌てふためく。
車には詳しくない上に興味も無いから車種だとかメーカーだとかは分からないけど、大河さんの車が高級車だという事だけは分かる。普段通勤にも使われている、大河さんの大事な車を運転するだなんて、新車を運転させられるよりも、余程精神衛生上良くないじゃないか!
「気にするなよ。万が一破壊されちまったとしても、お前が無事なら構わねえ。それに、その時は二人共新しい車を買えば良いだけだしな。」
「いや、車が破壊してしまうような事があれば、私も無事じゃ済まないですよね? それに、ご自分の車にもう少し愛着を持ってあげてくださいよ。」
「なら、お前が運転に気を付ければ良いだけだろうが。大丈夫、俺も隣で見ていてやるから。」
「大河さんが同乗されるのなら、ますます運転出来ません。命の保証は出来ませんよ?」
「……お前、ちゃんと免許取ったんだろうが。」
大河さんに呆れられながらも、取り敢えず慣れろ、と半ば無理矢理大河さんの車の運転席に放り込まれてしまった。手際良く車に初心者マークを貼り付けて助手席に乗り込む大河さんを、じとりと横目で睨みながら、仕方なくシートベルトを締めて、恐る恐る近所を一周する。
「何だ、ちゃんと運転出来るじゃねえか。強いて言うなら、止まる時はブレーキをこまめに踏むと、滑らかに止められるぞ。後、もう少しスピード出しても良いんじゃねえか?」
「運転中に横で喋らないでください。気が散ります。文句があるなら私は今後一切運転しませんから。」
横で呆れている気配がするが、こっちは必死なのだ。大河さんが同乗しているのだから、間違っても事故を起こす訳にはいかない。そして高級車にほんの少しでも傷を付けたくない。
早々に駐車場に戻り、車を止めて、漸く緊張が解けた私は、ぐったりと運転席に凭れ掛かった。
つ、疲れた……。もう私、一生ペーパードライバーでも良いんじゃないかと思うんだ……。
その後、車の購入をせっついてくる大河さんに対して、私が難癖を付けて逃げ回るようになった事は言うまでもない。




