第856話 逃走劇⑧慣れ
うとうとしていたみたいだ。
扉の開く音で、ぼんやりと起き上がる。
『フランツだ』
クイが教えてくれる。
フランツが帰ってきた。ご飯だ!
急にシャッキリした。もふもふも起きて、クイもわたしの肩に飛び乗った。
『あの女が来たぞ』
あの女?
「アダム?」
衝立のこちら側でわたしは笑ってしまった。
上着に話しかけてる。
いつ気づくか見守ろう。
奥のお風呂場から水音とアオの〝でち〟が小さく聞こえた。
「戻ったからベッドで休んでくれていいぞ。寝てるのか?」
フランツが荷物をテーブルの上に置いた。椅子の方は見なかったようだ。
そこにノックがあり、少しの応答の後、フランツは少しだけドアを開けた。
そこに体をねじ込ませるようにして入ってきたのは、赤いドレスの女性だった。
ほんのり甘い香が漂う。
衝立の横から首を出すようにしてそうっと覗き込むと、あの女性だ。派手な女性が軽くドレスアップしていた。3割増しで色っぽい。強烈なアイメークも、今は優しい感じにしている。
「ごきげんよう」
「……何の御用ですか?」
「お礼のお食事に付きあってくださいな」
「なぜ私が?」
「では、大切な〝妹〟さんでもいいわ」
フランツが動いた。
女性が閉じたドアに押し付けられて、その喉にフランツの手があった。
「何が目的だ?」
凄みをきかせたフランツの声。
「ちょっ、しょ、食事をご馳走するって言ってるだけでしょ」
哀れに震えている声。
フランツがスッと手を外す。
「私たちにかかわるな」
冷たく鋭い警告。
「いやよ」
女性が可哀想と思いかけていたんだけど、心配なさそうだね。
うん、鋼のメンタルだ。
ため息を落とすフランツ。
「なぜ私に興味を持つ?」
「そんなの、あなたがいい男だからに決まってるじゃない」
女性の声はもう震えてなかった。
ま、そうだろうとは思っていたけど、フランツがかっこいいから、ちょっかいかけてきてたわけね。
「……そういうのは間に合ってるんで」
「なぁに、妹の前でいいお兄さんでいたくて、自分は恋愛しないっていうの?」
え?
この場合、妹=わたしのことで、わたしがいるからナンパにのれないってわけ?
……当たってる。今、わたしをユオブリアに無事に届けようと、フランツもアダムも協力してくれてる。だからあんなボン・キュッ・ボン体型の派手な美女に誘われてものれないってわけだ。
……わたしってお荷物だな。
「そうではない。私にはもう大事な人がいる。ただそれだけだ」
……フランツ、そういう人がいるんだ。
そっか、そうだよね。もう成人してるんだもの。
「あら、ひとりに操だてしているの? 今時そんなの流行らないわよ。男なら体が火照る時もあるでしょう? 私が体を慰めてあげるって言ってるの」
これってめちゃくちゃ誘われてるじゃん。
フランツは断りたかったら自分でも断れるだろうけど、わたしがお兄ちゃんとか声を掛けた方が断りやすいかな?
あ、でも、若い時男性は溜まるとどこかで聞いた気がするし、ずっと団体行動してたし。子供のわたしにはわからないけど、大人の女性から見て溜まって見えたのかも。だとしたら、断りたくないかもしれないし。やっぱり出ていかない方がいいか。
ん? 溜まるってなんだっけ? その先はぼんやりした記憶だ。
ふと思い出すこともあるんだけど、元々の記憶からぼんやりしていることなのか、上辺だけを思い出しかけたのかはっきりしてないことが多い。
「必要ないので、お引き取りください」
フランツが一歩踏み出して、圧をかけ女性を追い出そうとした。
!
女性はそのフランツの胸に手を当てる。
指先が艶っぽく見えた。
「もしかして、女の肌を知らないの?」
なっ。
フランツは動じず、女性の顎を指で上に向かせる。自分から目を離すなというように。
そうしてもう一歩踏み出したので、女性の足の間に踏み込んだような態勢になる。
「男の熱を知ってるのか?」
目を離さず、見つめたまま低音で言った。
離れた場所で見ていたわたしがゾクッとした。
なんかそこの空間だけ熱気がこもっている。
なんかいつものフランツと違って、知らない人を見ているようで。
っていうか、男の色気っていうやつ?
何それ……。
へーーーーーー。
ふぅーーーーーーーん。フランツって慣れてるのね。
顔はいいし、場数、踏んでるか。
「教えてくれるの?」
女性がフランツの顔に顔を近づけた。
!
あ、あああああわゎゎ!
ズドンと衝立が倒れた。
音で振り向いたフランツが驚いた顔をする。
「な、何でそこに!」
「ご、ごめんなさい。どうぞ続きを……」
わたしはぬいぐるみになった、もふもふとクイをむんずとつかんで、ベッドにまわりこむ。
見てたの、バレた。
でも、だって。目が離せなかったんだもん。
フランツは早口で何かを言って、女性を部屋から追い出して扉を閉めた。
「……トスカ」
「ごめん。声をかけるタイミングが」
「トスカ、こっちを見て」
うーー。
『どうしたのだ?』
もふもふがぬいぐるみから生き物になった。サイズはそのままだけど。
クイもだ。
「あの、ごめんなさい」
「謝ることないよ。声を掛けてくれてよかったのに」
「…………」
「どこから見てたのかはわからないけど、あの人がお礼をと言っていたのを断っていただけだからね」
えーーーーー、それだけじゃないよね?
「なかなかしつこいから、ちょっと脅す形になったけど」
「わたしに言い訳しなくていいよ」
わたしは明るく言ったつもりだ。
「守ってもらってばかりで。溜めるのは良くないって聞いた気がするし。わたしは気にしないから、フランツの好きに……」
目の前にフランツがいて驚く。
「た、溜めるってそれどういう意味かなぁ? そんなこと、君に吹き込んだのは誰? バッカスか? 絶対あいつら許さない……許さない、許さない……」
フランツが怖い!
そこにアダムがお風呂から出てきた。
「な、何してる? トスカが怯えているようだけど」
その言葉でフランツがわたしをマジマジと見た。




