第349話 矛盾
「リディア……」
わたしの顔を見て、カトレアはわたしの手を引いた。
「私の部屋に行きましょう」
カトレアは部屋に飲み物と濡らしたタオルを持ってきて、タオルをわたしの顔に押し付けた。
「それで冷やすのよ。そうしないと後で腫れるから」
わたしは言われるままに、タオルで目の周りを冷やす。
ふたりともわたしが急にやってきたことも、泣き出したことも驚いたに違いないのに、なにも聞かず、わたしが話すのを待ってくれている。
「……あのね、嘘だった」
言葉にすると、また涙が溢れた。
「「嘘?」」
ふたりの声が重なる。
ふたりの顔を見ることはできない。目を瞑り、熱い涙がタオルを重くするのをただ感じながら言葉を紡ぎ出す。
「兄さまに好きな人ができたら、開放してあげなくちゃと思ってた。その恋を応援するって。でも、そんなの嘘だった」
わたしは王族の婚約者候補に挙がっていると話が出たときに、兄さまがわたしの婚約者をかって出てくれたんだと、真相を話した。だからお互いに好きな人ができたらこの婚約を解消するつもりだったことも。
「わたし、応援なんかきっとできない。今まで散々婚約者って縛りつけておいて、だから余計に、兄さまには誰よりも幸せになってほしいのに、……ほしいのに、なんで、なんで開放……できない……」
「フランツさまに好きな人ができたの?」
鋭く聞かれる。
「わかんない。けど、すっごくお似合いだったの。それに……冷たくしているけど、他の人との接し方とはまた違うの」
「じゃあ、そのふたりでいるところを見て、びっくりしちゃったのね?」
……そういうことになるかな。
「じゃあ、リディア、なんで驚いたか、わかってる?」
なんで驚いたか?
「兄さまに好きな人ができたら、こうなるんだって思えて」
「それはまだ不確定なことなのよね?」
確かに……。でもそれはいずれ……。
「不確定なことなのに、なんで哀しかったの、辛かったの?」
「それは……今は不確定でも、いずれその時はやってくるから」
「フランツさまに好きな人ができたら、なんで哀しいの? 辛いの?」
胸に痛みが走る。
「兄さまを解放しないといけないから。でも、応援できないから。嘘つきだから」
また涙が溢れ出す。答えを出したのに、カトレアは追撃を緩めなかった。
「なぜ、フランツさまの恋を応援できないの?」
なぜ?
「……わからない。誰よりも幸せであってほしいのに、応援しなくちゃいけないのに、とても辛いの」
「リディア、その答えをみつけないと、いつまでも苦しくて辛いよ。一番最初が見えてないから苦しいの。リディア、私を見て」
タオルをずらして、カトレアをみつめる。時々カトレアの輪郭が歪む。
「フランツさまに幸せになってほしい、その気持ちはわかったから、それは置いておこう。フランツさまのことは考えなくていい。リディアがどうしたいか、リディアの気持ちが大切なの」
「そうだよ。あたしたちはフランツさまよりリディアが大切なんだよ」
ミニーの言葉が胸にくる。
カトレアがわたしの手を握る。
タオルを持つもう一方の手をミニーが握ってくれる。
「リディアはフランツさまの恋を、どうして応援できないの?」
兄さまの恋をどうして応援できないか……それは
「兄さまが恋をしたら、わたしから離れて行ってしまうから。わたしはずっと一緒にいたいのに!」
「なぜ、ずっと一緒にいたいの?」
「兄さまの近くにいたい。だって」
記憶している兄さまがわたしの名を呼んで手を伸ばしてくれる。微笑んでくれる。
……ああ、わたし、家族としてだけじゃなく、兄さまのこと……。
「だって?」
「……だって、兄さまが好きだから」
ギュッとカトレアが抱きしめてくれる。
「それがリディアの答えよ、忘れないで」
わたしの答え……? あ……。そうだ。そうなんだ。わたしは兄さまが好きだったんだ。家族としてだけでなく。もう、ずっと前から。
「好きなら、相手に好きな人ができたら辛いのは当たり前。応援できないのも当たり前。それでも世界で一番幸せであってほしいと望むのも当たり前。そこに矛盾はないの。できないからって、嘘つきだって苦しまなくていいのよ、当然の気持ちだわ」
わたしは嘘つきで卑怯者じゃない? 兄さまを解放するって散々言っておいて、それなのに、それは当然だと思っていいの?
「あたしだって、ビリーが女の子を助けてあげた話を聞いたときは穏やかじゃいられなかったわ。いいことをしているし、頼もしいって思うところなのに、実際はかわいい子だったの?って聞いて怒られたこともある」
ミニーが眉を八の字にして失敗談を教えてくれる。
「リディアは恋愛にも不器用なのね」
カトレアを恨みがましく見上げる。
「〝にも〟って言った」
「あー、ごめん、ごめん。でもリディア、いろいろ不器用じゃない」
「大雑把だしね」
心配をかけたお仕置きだというように、ぺちっとおでこを叩かれる。
「で、実際、フランツさまがその子を好きって言ったわけじゃないんでしょ?」
わたしが頷くと
「「なんだ」」
呆れたように呟く。
「ふたりとも酷い!」
声をあげれば、ふたりとも笑った。
「先輩からのアドバイスよ。リディアの気持ちを伝えなさい。素直に言うの。それで振られたら……一緒に泣いてあげるから」
「うん、あたしも付き合う!」
兄さまを好きだと認めたら、胸の痛みは変わらなくても、不思議と塞ぎ込むような重たさは薄れた感じがする。
わたしはいつの頃からか、この気持ちを〝家族〟の好きに置き換えようとしていた気がする。……それは傷つくのが怖かったからだ。いつか兄さまに好きな人ができた時、応援できるように、そして自分が傷つかないように。〝家族〟という立場に逃げていた。
わたしは〝今〟がとても心地よかった、この関係が。家族にいっぱい愛されている自分を守りたかった。家族に恵まれてこんなに幸せでいいのかと思う反面、傷つくことがあったらどうしようと怯えていた。わたしはとてもシンプルな思いから顔を背け、見ないようにしていたんだ。
一度、気づいてしまえば、あまりに幼い気持ちの回避が痛々しく見える。
わたし、もうとっくに、兄さまに恋してたんだ。
タオルでもう一度顔を拭く。
そしてふたりに向き合った。
「ふたりとも……ありがとう」
「プリン2個で手を打つわ」
カトレアが真面目な顔をしていうので、わたしたちは笑ってしまった。
「カトレア」
ドアがノックされて、カトレアを呼ぶ声がする。
旦那さまだ。わたしとミニーは挨拶をした。
「領主さまがリディアお嬢さまを迎えにこられたよ」
え、父さま?
そのとき、わたしの頭の中で走馬灯のように、自分のしてきたことが蘇る。
わたし、〝ここ〟まで……。
学園ではアラ兄を振り切り、もふさまに乗って移動。王都の家からメインルームに移動して、町の近くに送ってもらった。ミニーの家に行き、そこからミニーともふさまに乗ってカトレアの宿まで来た。
ただミニーとカトレアに会いたい気持ちに突き動かされて。




