第87話 平常心
1回裏、優紀ちゃんは先頭バッターにセンター前ヒットを打たれたので、早くも詩野ちゃんが声をかけに行った。私も気負わないようにと何度か声をかけたけど、人というのは簡単に平常心を取り戻すことが難しい。
その後は詩野ちゃんのガス抜きが上手く行ったのか、ワンナウトランナー2塁となって3番の大橋さんをシンカーで三振に打ち取ったけど、4番の大槻さんにはカーブを捉えられてレフトオーバーのツーベースヒットを打たれた。
大槻さんの調子が良すぎるから敬遠した方が良いのかもしれないけど、打率自体は4割弱だからそこまで打ってはいないんだよね。というか今の打球は、いつもの真凡ちゃんなら捕球出来ていたかもしれない。
……真凡ちゃんも、少し調子が悪いのかな。試合前に、気合いを入れ過ぎたか。
「勝って関東大会に行こう」
試合前に円陣を組んだ時、奏音は勝って関東大会に行こうと語りかけた。その言葉で上手く気合いが入ったのは奏音自身と、本城、江渕、梅村、春谷の5人だった。
一方で、気負ってしまったのが伊藤と西野になる。レフトオーバーのツーベースヒットになった打球は、冷静な対応を伊藤が出来ていればアウトになっていたかもしれない。そしてそのことを自覚出来てしまっている真凡は、一気に身体が重くなったかのような錯覚を覚えた。
続く5番の藤田にも西野はヒットを打たれ、ボールはレフト前へ転がる。急いで捕球した伊藤は、梅村からの「4つスルー」という言葉に反応し、ホームへと投げる。
しかし、送球は逸れてセーフとなった。元々、ランナーが2塁にいる状況でシングルヒットを打たれた時、ホームでアウトを取るのは難しい。しかし今の打球なら、練習通りの動きをしていればアウトだった。
西野はその次のバッターを打ち取り、1回裏を2失点で抑える。試合は1対2と、和泉大川越が1点をリードして2回を迎えた。
1回裏の守備が終わってベンチに戻る時、真凡ちゃんに声をかける。こういう時は余計なことでもしないよりはマシなので、意識の持ち方を変えるよう試みる。
「真凡ちゃんは、これからしばらく考えるの禁止ね。いつもより上手く行ってないとか、意識するのも駄目」
「……そう言われても、考えないなんてことは出来ないわよ」
「じゃあ、意識の問題だね。とりあえず、負けても死なないから安心してプレイに集中しようよ」
場数を踏んでいても、ふと強烈なプレッシャーに押しつぶされる人もいる。前世では、2年の春から大活躍をしていた凄い先輩が、最後の大会を迎えた瞬間に打てなくなるどころか自分のスイングさえ見失った。
当てに行こうとして、振り切れなくなったのだ。1年生の頃から、当てに行くなとは嫌というほど教えられているはずなのに。
……まあ、真凡ちゃんは当てに行くスイングでヒットを量産しているのだけど。今日の真凡ちゃんは、よく初回の攻撃でヒットを打てたと思えるぐらいには調子が悪い。いや、調子が悪くなったのは最初の守備のミスからかな。
可能な限り、真凡ちゃんの緊張を取り除く言葉をかけつつ、味方の応援もする。2回表の攻撃は、6番の詩野ちゃんから。しかし残念ながら、詩野ちゃん、優紀ちゃんと湘東学園のバッテリーは連続三振。早くも、大槻さんのエンジンがかかっている。
夏の大会の時、大槻さんは相当悔しい想いをしたのだと思う。一切の妥協をせずに、夏の間はひたすら練習に打ち込んでいたのだろう。持ち球は全てキレが増しているし、ストレートの球威はえげつない。
それでも、絶対に打てない球では無い。美織先輩がライト前へ運んでヒットで出塁すると、共鳴するかのように同じようなバッティングで奈織先輩もヒットを打つ。フォームは違うのに、打った球は同じカットボールだと思う。
ツーアウト1塁2塁となって私が敬遠されたので、ツーアウト満塁で真凡ちゃんの打席だ。前の打席のバッティングが出来ればヒットを打てる可能性は高いけど、顔が険しくなっちゃってる。
ピンチになって、より一層球威の増した大槻さんのストレートに、真凡ちゃんはバットを当てるのが精一杯。カウント1-2となって5球目、外角低めのストレートに真凡ちゃんは手が出ずに三振した。これは、重症かな。真凡ちゃんが三振したの、もしかすると初めてかも。
どんな状況でも難しい球はカットしていた真凡ちゃんが、ストライクかボールか微妙な球にスイングを止めたということは、フォアボールを期待したということになる。大槻さんのコントロールが上がっていることは知識としてあるのに、身体が勝手に打たなくても良いという選択肢を選んでしまった。
真凡ちゃんは、四球での出塁もそれなりにしていた。難しい球をカットし、はっきりとしたボール球だけを見逃しての四球だ。そしてそういう時、最初から四球を狙っているわけじゃないことは本人の口からもきいている。
……経験を積んだことによって、真凡ちゃんは四球狙いを選択肢に入れてしまった。元々打つのが好きで野球を始めたはずなのに、打たないという選択肢を選んだことは良くない兆候だ。次の回の攻撃時にでも、じっくりと話そうかな。
試合は2回裏に移る。優紀ちゃんも相変わらず気負ってはいるけど、上手く力は抜いている。いつも通り、要所で締めるピッチングが期待出来そうだ。何だかんだ言って、投手の力を引き出すという点で詩野ちゃんは優秀だと思う。




