中(発端)
今日は朝から冬の国らしい澄んだ寒さだった。今はもうすっかり日が出ているというのに、空気に触れている部分がぴりぴりと痛む。
普段は執務室にこもっている時間なのだが、うっかり資料を数枚自室に忘れて来てしまい、慌ててとりに戻ったのだ。距離はそれほど離れてはいないものの、強烈な寒さによって体はすっかり冷えていた。
コートの釦をしっかりと留めて、襟元に顔をうずめるようにして回廊を歩いていると、ちょうど反対側の扉が開いたのが見えた。中庭では、雪に埋もれている庭木の凍りついた枝先が日を受けてきらきらと光っている。
その奥に見えた姿に、わたしは息をのんだ。
「ディート……?」
大臣たちに続いて現れたのは、久しく会っていなかった末弟のディートリッヒだった。
齢は今年十五に届くかどうかというところだったと思うが、幼いころから勉強が得意で将来を有望視されていた。武芸の方も器用にこなし、王位継承の際はどうしてわたしより先に生まれなかったのかとひどく惜しまれていたことを記憶している。
今はまだ学校に通っていたはずだが、どうして城にいるのだろう。いや、そもそもあの部屋は、彼が入るような部屋ではなかったはずだ。後ろに控えていたバルトラムが付け加えるように言った。
「確かにディートリッヒ様ですね。どうやら、会議室から出てこられたようです」
「会議室……」
――王であるわたしが参加を許されない作戦会議に、優秀な末弟が加わっていた?
考えて、言いようのない不安に襲われる。わたしは跳ね上がった心拍数を誤魔化すように自らの胸元を掴んだ。
中庭をはさんだ向こう側では、こちらに気付いた者たちがなにやら相談をしたかと思うと、数人が弟を隠すようにしてすばやくその場から立ち去ってしまった。
確かに今まで不遇はあったが、こんなにあからさまに行われたことはない。いや、おそらくわたしが知らないだけで、きっと何度もあったことなのだろう。
馬鹿にされている。そしてやはり、奴らは信用ならない。恐怖のような、冷え切った怒りのような感覚が、寒さと相まって唇を震わせた。
「……作戦会議とやらには王は呼ばず、最も幼い王の弟を呼ぶのか」
吐息に乗せるようにして思わず呟いてしまい、慌てて口を手で覆う。失言だ。辺りに目を走らせるが、こちらに向かってくる大臣たちはやっと角を曲がったところだ。わたしの迂闊な独り言を聞いたのは、おそらく斜め後ろで沈黙を守っているバルトラムだけだろう。
正面から三人の大臣が歩いてくる。お互いに目的地が反対にあるらしく、否が応でもすれ違わなくてはならない。わたしは彼らを見ないようにして一歩足を踏み出した。
「陛下、どうしてこんなところにいらっしゃるのですか」
のっぺりとした声がわたしを引き留める。顔を上げると、魚のような顔をした大臣が道をふさぐように立っていた。下品とはわかっていても、不快感をあらわにして舌打ちをしたい気分だった。
魚顔はえらを見せるようにつんと顔を上げて、居丈高に言う。
「ご自身の執務はどうなされたのですかな? 弟ぎみのイスヴァルト様を始めとする軍人たちが今この時も果敢に戦っているというのに、当の陛下がこんなところで油を売っておられるとは、にわかには信じがたいですな」
「そ、それは……わ、わたしは、その……」
「お父上のような立派な王となるため、外見ばかりでなく執務などへの心がけから徹底していただきたいものです。こんな時間にふらふらと出歩くなど、怠慢とそしられても仕方のない行動と言わざるを得ませんな」
わたしが言葉を探しているうちに、大臣はどんどんと話を進めていく。いつもこうだ。いつもこうして結局一言もまともに言い返せずに終わるのだ。
なにか言わなくてはと焦りながらも、すでに諦めている自分もいる。わたしが目を白黒させていると、斜め後ろから冷静な声が降ってきた。
「皆様方も怠慢をはたらいているのではありませんか」
一瞬、雪に音が吸われたかのように、ふっとその場が静かになった。
思わず振り返るが、やはりというべきか、表情をうかがい知ることはできない。
恐れを知らないらしいバルトラムは、沈黙をものともせず単調に続けた。
「作戦会議に未成年である末弟のディートリッヒ様を参加させるのであれば、先に陛下へお話を通すのが道理ではないのですか。自らが報告義務を怠っているにもかかわらず、畏れ多くも陛下を怠慢と評するなど、臣下として無礼極まりない行いだと言わざるを得ません」
言い終わるかどうかというところで、貝のように沈黙を守っていた魚顔の男が突如激昂して声を張り上げた。
「黙れ! アンドロイド風情が我らに口答えをしてよいとでも思っているのか!」
「論理的に回答をしてください。わたくしは『陛下への報告義務を皆様が果たしていないのではないか』という疑問にお答えいただきたいと考えているのです」
「黙れと言っておるのだ! 機械の分際で、私の言うことが聞けないのか!」
「わたくしは陛下のアンドロイドです。主人でもないあなたの命令を聞く理由はございません」
「バルトラム!」
慌てて名前を呼ぶと、心なしかいつもより硬質な声で話し続けていたアンドロイドは、はっとしたようにこちらへ視線を寄越した。『大臣に噛みつけ』という命令をされていないことを思い出したようだ。つるつるとした顔には、咎めるように眉根を寄せたわたしの顔が映っている。
理性的ではない物言いで追い打ちをかけようとした魚顔の大臣も、こちらと同じように仲間に諌められているようだ。
わたしは気を取り直して前に向き直った。
「バルトラム、部屋へ戻るぞ」
「申し訳ございません、出過ぎた真似をいたしました」
まったくだ、と思ったが、口には出さなかった。バルトラムが命令にないことをしたのはこれが初めてかもしれない。
大臣どももさすがに懲りたらしく、もう引き留めてはこなかった。
□ □ □
「なぜ勝手なことをしたんだ? あいつらの嫌味なんていつものことだろう」
執務室に戻って書類へサインをしながら尋ねると、普段であればよどみなく返答するバルトラムは、考え込むようにしばらく沈黙した。
「……バルトラム?」
「……わたくしは、陛下をお慕いしております」
確かめるようにゆっくりと言われた言葉が理解できず、今度はわたしが閉口した。
アンドロイドは、普段通りの抑揚のない話し方で続ける。
「陛下は素晴らしいお方です。思慮深く聡明で、わたくしにまるで人間にするように話しかけてくださいます。わたくしは、陛下を深く愛しております。ですから、そのような尊いお方に対して卑劣な手段で無礼をはたらき、その素晴らしいお心を痛めつけていくような輩が、どうしても我慢ならないのです。わたくしはあなたをお守りしたいと思い、勝手な行動をとってしまいました」
「……そうか」
わたしはバルトラムの言葉をじっくりと考えて、なるほど、と感心した。
このアンドロイドには、主人を守ろうとする機能がついているらしい。
しかも、それを感情に置き換えて説明するなんて、本当によくできている。確かに「そうするようにプログラムされているから」と言われるよりも「ご主人様のことが好きだから」と言われる方が心証はいいだろう。
人間の愛情ほど不安定で信用できないものはないが、機械の愛情には主か主でないかの二項しかない。
主である間は好意を向けられ、そうでなくなれば好意も失われるという明快さは、わたしのような疑り深い人間にとっては心地よくもある。
わたしは現在バルトラムの主であり、それによって彼に愛されている。そして彼は、愛という名のプログラムに従ってわたしを守ろうとした。それだけのことなのだ。わたしは有能な側近に向かって微笑んだ。
「わたしを守ろうとしてくれたんだな。また頼むとは言えないが、お前の気持ちは本当に嬉しいぞ。ありがとう」
「……陛下」
「なんだ?」
ぽつりとわたしを呼んだきり、バルトラムはしばらく黙ってこちらを見つめていた。いや、彼の表情は読めないから、ただこちらを向いて考え事をしていただけかもしれない。
たっぷり一分近く口をきかなかった側近は、消え入りそうな音量で「失礼いたしました、何でもございません」と言ったきり、本当に沈黙してしまった。
仕方がないので、サインを書く作業に戻る。手を動かしながら、頭ではぼんやりと考え事をしていた。
本当は、機械の愛に安心するなんておかしいことだとわかっている。そのような感覚になってしまった自分が悲しくもある。そのもととなっているのはおそらく育ちすぎた猜疑心だ。そう思い当って、わたしはいささか力を込めて名前を書いた。
どうしてこんなに疑り深くなってしまったのか。王家に先代の王に似た顔で生まれてしまったからだろうか。
亡き母は、英雄と慕われる父と同じ顔の娘が、自分以外のしかも男のものになることが堪えられず、娘を男として育てることにしたのだった。結局出来の悪さに絶望して勘当されてからも、縁談の話などなかった。
代わりに玉座に座る権利が転がり込んできたのだが、それによって人間不信が培われてしまった。もはや男も女も信用できないのだ。大嫌いと言ってもいい。このような状況なのだから、恋人すらも望めないことは薄々わかっていた。
――ならばいっそ、自分を慕ってくれるアンドロイドと穏やかに暮らすのも悪くない。
疑うべくもない愛情を向けられ、相手をすっかり信じて過ごす日々は、どれだけ心休まるだろうか。わたしは夢想して、軽やかにペンを走らせた。
末弟を王にしたいということならば、自分からさっさと王位を譲ってさっさと隠居してしまおう。この椅子にはひどい目にばかり遭わされたのだ、未練も何もない。リボンでも巻いて笑顔で渡してやりたいくらいだ。
もしそれが許されないのであれば、最悪王位をかなぐり捨て、バルトラムを連れて世捨て人としてどこかに逃げよう。なんにせよ――
「――王はもういいな」
言ってから、慌てて口を閉じた。無意識のうちに声に出してしまったらしい。最近失言が多いようだ、気をつけなくては。
ペンを置いて資料に手を伸ばした時、ふと後ろを見ると、なにやら沈んだ様子でバルトラムが俯いていた。
「……陛下は、わたくしの想いをわかってはいらっしゃらないのですね」
低い声で呟かれた言葉に「そんなことはない」と言おうとした時、部屋にノックの音が響いた。先ほどの沈んだ様子が嘘のように、バルトラムは普段通りきびきびとドアへ向かう。
時計を見ると、すでに新たな仕事が持ち込まれる時刻になっていた。用意していた言葉は結局声になることはなく、口の中で溶けてしまった。




