1 プロローグ~少女は魔法使いの夢を見る~
「――こうして悪い魔法使いは倒され、王子様とお姫様はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。……おしまい」
絵本を閉じた母が、ふかふかのブランケットを掛け直してくれる。そこからぴょこんと顔だけ出して、少女はくふふ、と嬉しそうに笑った。
「ああ、おもしろかったぁ。おひめさま、しあわせになれてよかったねぇ」
言いながら、小さな体いっぱいに膨らんだ興奮を持て余した様子で、もぞもぞとブランケットの中で身をよじる。
なにしろ今日は少女の六歳のお誕生日で、朝から楽しいことが盛りだくさんだったのだ。
父と母と三人、早起きしてお弁当を作り、乗合い馬車に揺られて海辺の町まで遠出した。
初めて見る海に大はしゃぎし、波打ち際で父と追いかけっこをして。砂に足を取られて尻餅をつき、スカートがびしょびしょになったときはべそをかいてしまったけれど、清潔な服に着替え、親子揃ってお弁当のサンドイッチを食べる頃には、しょんぼりした気持ちはすっかり晴れていた。
午後は母と一緒に、綺麗な貝殻や小石を探した。お気に入りを見つけるたびに、少し離れた場所でスケッチブックを広げる父に見せに走った。父は絵筆を握る手を止めて、これはいいね、と微笑んだ。
楽しくて楽しくて、まだ帰りたくないと駄々をこねて父と母を困らせた。また来年のお誕生日に三人で来ようねと約束し、ようやく乗り込んだ馬車の中、父の肩にもたれてうとうとしながら家に帰り着いてからも、素敵な一日はまだ続いていた。
お祝いの日の夕食は、塩とハーブを擦り込んだチキンのロースト。母の手料理の中で一番のごちそうで、少女の大好物。とっておきのワインを開けた父と母と、とっておきの苺ジュースで乾杯した。
デザートは、ナッツとドライフルーツがぎっしり練り込まれたパウンドケーキ。特別な日にだけ添えられる甘いホイップクリームを、父と母の分までよそって貰い、大きなスプーンで口いっぱいに頬張れば、少女のふっくらとした頬は薄桃色に輝いた。
そんな、楽しくて幸せで特別な日の夜更け。
ベッドサイドのランプの下には、浜辺で拾った貝殻や小石が行儀良く並び、それを薄いカーテン越しに真ん丸の月と銀色のフクロウが見つめている。
「ねぇねぇ、おかあさん。まほうつかいって、ほんとうにいるの?」
「そうねぇ……どうかしら。ソフィはどう思う?」
ちっとも眠る気のない娘の頭をゆったりと撫でながら、母が微笑む。
「いるとおもう!」
即座にそう答えてから、少女はうーんと唸って眉を下げた。
「でも……もしほんとうにいたら、ちょっぴりこわい……。だって、まほうつかいは、わるいことをするんでしょう?」
「あら、そうとは限らないわよ。お母さんの生まれた国のおとぎ話ではね、お姫様を助けるのは、王子様ではなく良い魔法使いの役割なの」
「えっ、そうなの?」
少女の瞳がきらきらと輝く。
「おはなしききたい! よいまほうつかいさんが、おひめさまをたすけるおはなし!」
「ふふ、少しだけよ。……良い魔法使いは銀の髪と紫の瞳の、それは美しい姿をしていてね」
「うんうん」
「使い魔の鳥を相棒に、冒険の旅に出るの。魔法の力で困難を乗り越えて、ついに囚われのお姫様を助け出すのよ」
「まほうってどんなの? おそらもとべる?」
「もちろん。でももう遅いから、続きはまた明日にしましょうね。さぁ、良い子でおやすみなさい。私の小さなお姫様」
え~、と少女が不満そうに頬を膨らませる。
そんな少女の額にやわらかなキスを落とし、母が枕元のランプを吹き消す。少女のおでこを撫でる母から慣れ親しんだ甘い香りが漂い、少女を優しく包み込む。途端に少女は、ふわぁと大きなあくびをした。
「……ねぇおかあさん……いいこにしていたら、わたしのところにも、よいまほうつかいさん、あいにきてくれるかなぁ……?」
少女の声は次第に間延びし、瞼は重たくなっていく。
カーテン越しの月明りが、子ども部屋の母と娘を静かに照らす。フクロウがバサリと大きな翼を羽ばたかせる。
「ええ、きっと来てくれるわ。ソフィが困った時には、きっと……」
優しい囁き声が、だんだん遠くなる。
母の香りとブランケットの温もりに包まれ、少女は幸せな眠りに落ちていった。
夢の中、少女は一面のラベンダー畑を駆けている。
ふいに一陣の風が吹き抜け、少女はとっさに足を止めて目を閉じた。紫の花穂と少女の黒髪が踊るように揺れる。
ようやく風が静まり目を開けると、一人の少年が立っていた。
少女よりずっと背の高いその少年は、星のようにきらめく銀の髪をたなびかせ、ラベンダー畑を映したかのような鮮やかな紫の瞳で少女を見つめている。
「あっ、よいまほうつかいさんだ!」
嬉しくなって駆け寄ろうとしたけれど、なぜか少女の足は動かず声も出ない。
ドキドキしながら佇んでいると、少年がゆっくりと歩み寄ってきた。
少女の前で跪き、小さな右手をそっと掬い取る。
そのラベンダー色の瞳はとても綺麗なのになんだか寂しそうで。
少女は「だいじょうぶだよ、わたしがいるよ」と言う代わりに、ぎゅっと少年の手を握り返す。
紫の瞳が驚いたように見開かれ、それからやわらかく細められた。
「……いつか、出逢えるのだろうか。私の――」
◇
早朝、手足のあまりの冷たさに目が覚めた。
薄暗がりの中、ほぅと吐き出した息は白い。何か温かくて幸せな夢を見ていたような気がするが、夢は物寂しい気配だけを残して儚く消えてしまった。
ごわごわとした薄いブランケットを頭までかぶり、硬いベッドの上で痩せた体をきゅっと丸める。そうしていても、寒さで体はカタカタと震えてしまう。
唯一の暖房器具であるブリキの湯たんぽは、とっくに用をなさなくなっている。もっとも、昨夜メイド長に頭を下げてようやく分けてもらったお湯はもともと冷めかけていて、ないよりはマシという代物だったのだけれど。
ソフィが寝起きするこの小さな木造の小屋は、もともと物置として造られたもの。
冬は絶えずすきま風が吹き込み、ベッドの上にいても土間からしんしんと冷気が上がってくる。
とろとろと温かな夢の世界に戻りかけたとき、カァ、カァというカラス達の鳴き声にはっと意識が浮上した。朝一番に鳴き始めるカラス達の声は、日の出が近いことをソフィに知らせていた。
(起きなきゃ……)
痩せた体をのろのろと起こす。氷のように冷えきった靴に足を差し入れ、意を決して寝間着を脱いだ。
寒さに鳥肌を立てながら素早く袖を通したのは、くたびれたメイド服。お下がりの黒いメイド服は、十五という歳のわりに小柄で痩せたソフィの体には全く合っていない。
エプロンをつけ、艶の失せた長い黒髪を手早く三つ編みにすると、ソフィは建付けの悪い引戸を音が出ないよう慎重に開けて外へ出た。
途端に刺すような冷気に包まれ、寒い小屋でも屋外よりはずいぶんマシだったのだと思い知る。暦の上ではまもなく春だというのに、朝晩の冷え込みは真冬並みに厳しい。
両手で自身の二の腕をさすりながら、足音を殺して裏庭を抜け、井戸へと向かった。
途中で一度足を止め、クラプトン伯爵家の家族が住まう本館と、使用人達が寝泊りする北館に顔を向けた。まだ誰も起き出した気配がないことに安堵し、再び歩きだす。
他の使用人達が朝の仕事を始める前に、井戸から水を汲んで厨房の水瓶を満たしておくこと。それは、クラプトン家の女主人である伯爵夫人から、ソフィに命じられた仕事の一つだった。
少しでも遅れようものなら、後で伯爵夫人からきつい罰を受けることになる。背中に鞭を打たれるのも辛いが、あの地下室に閉じ込められるのはもっと恐ろしい――。
井戸から水を汲み上げて桶に移し、いっぱいになったところで両手で持って歩き出す。
桶の持ち手は細く硬く、水の重さを容赦なくソフィの手に伝えてくる。こぼさないよう気をつけて歩いても、水面は揺れて跳ね、ソフィのスカートや靴を冷たく濡らした。
よろめきながら歩くこと三十歩、ようやく北館へ辿り着く。入口前の三段の階段をのぼり、厨房へ。重たい桶を胸の位置まで持ち上げ、やっとのことで瓶に水を流し入れる。
厨房の水瓶は大きい。これを満たすには、あと九回、同じ作業を繰り返す必要がある。あかぎれだらけの両手を息で暖めながら、ソフィは休む間もなく井戸へ取って返した。
何度も何度も、井戸と厨房の間を往復する。五回往復する頃にはソフィの手の平は真っ赤になって感覚がなくなり、痛いのか冷たいのかもわからなくなったが、休むわけにはいかなかった。
ようやく最後の一杯を流し込み、ソフィは息をついた。水の満ちた瓶を覗き込むと、さざ波のおさまった水面に、ソフィの顔が映り込む。
涼やかな深い青の瞳に、品の良い小ぶりな鼻と口。痩せて血色の悪い細面の顔は、よく見れば類い稀な美しさを秘めている。けれどそのことに気づく者はいない。
ソフィの顔の左側、頬から額にかけて、赤い炎が燃え上がっている。
八つの頃、ソフィの体の一部になってしまった、赤く醜い火傷痕。八年経った今も、決して見慣れることはない。
水に映る、虚ろな瞳と目が合った。
「――」
カサカサと荒れた唇を開きかけ、閉じる。
(……良い魔法使いなんて、来ない……)
心の中で呟いて、次の仕事へ向かうため、ソフィは静かに踵を返した。
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