第262話・空に光る
ルクファールが蘇生させた”ベール”という生物は、それと同じ名を持っていた青髪の男とは全くの別物だ。そこにはかつての心優しく、その優しさと弱さのあまりに悲劇へ飲み込まれた、あの男の魂は存在しない。蘇生当初は人間らしかったその肉体は、心無い改造の末に凶暴な悪魔へと変貌した。ルクファールとサナギ、サナミの命令に従うだけの、意志をもたない道具と成り下がっていた。
今、ベールはヒトというより獣に近い腕の中にテンセイとコサメ、ノームを抱えて翼を広げ、誰の命にも従わず海へ向かっている。いったい何がベールを動かしているのか。生命の本能か。それともその肉体に組み込まれた。かつてはベールの『紋』であった魂の衝動か。正体は知れないが、テンセイは迷うことなくその手を取り、身を任せた。
「なぁオッサン、コイツ……」
ノームは何か言いたいようであった。だが、言葉が見つからないのかすぐに口を閉ざした。視線を下に向けると、蟻のように群れる軍人たちの姿が見える。すでにかなりの高度に逃げているため細かくは観察できないが、おそらくいくつもの銃口がこちらを狙っているだろう。だがいかに精密な狙撃能力を持つ者がいても、その弾丸は決して届くことはない。ベールはとっくに銃の射程範囲から逃れている。
「今はとにかく、ルクファールを止めることだ。王も将軍も一旦後回しにするしかねぇ。たとえゼブとどんな決着をつけても、その前にあいつがウシャスへ攻めこんじまったらおしまいだ」
「……そうだな。クソ、やっぱしアイツ、トドメを刺しといた方がよかったんじゃあねぇか? 多少拘束したところですぐに脱出させるだろうし、ラクラ隊長に預けておいてもウシャス国内で暴れられたら余計厄介だし。ホントどこまでいっても迷惑な野郎だぜ。いっそのことあの島に放置しといた方がよかったかもな」
「完全に行方がわからなくなってしまうのが一番面倒だろ。それに、見ようによっちゃあ結果オーライだぜ。少なくともあいつが動き出したって情報を聞いて、こいつが動き出したんだからな」
「それもそうか。あのままだと、オッサンはともかくオレはあと数分ももたなかっただろうしな。ムジナを遠くまで行かせる時間も稼げなかった。あの将軍たちから逃がしてくれたのは大助かりだ」
「その代わり、今度はあいつを止めなくちゃならねぇ。……あいつ一人ならまだ勝機はある」
「テンセイ……」
「コサメ、下を見るなよ。あんまり高いのに驚いて目え回すぞ」
「だいじょうぶ。あのね、テンセイ。このひと、なんだかシクシクないてるよ。」
「泣いてる?」
テンセイはベールの顔を見上げた。角度の都合で悪魔の顔は見えないが、特に悲しみや涙の気配は感じられない。
「鳴いてるってか、吼えてはいたけどな。ぐおおお、とか」
「わかるのか? コサメ」
「わかんないけど、かなしそう。でもね、とてもいっしょうけんめいなの。ゆうきを出してがんばってる」
今のコサメは神の力を失い、もはや『紋付き』ですらないごく普通の子どもだ。それでも長き戦い野中に巻き込まれた経験が、少女の心を強く鍛えさせていた。無垢な性質はそのままに、物事を受け入れる強さを手にしていた。
少女と戦士を抱いて、悪魔は東へ飛ぶ。
「結局のところ、ヒトは他者に命令されて動いてる時が一番幸福らしいな。私に抵抗を試みていた時はどいつもこいつも苦しそうな表情をしていたくせに、いざ私に従うと見るとなかなか落ち着いている」
「クケ、クケ、真の強さを知った、知った、悟りと言いますか何と言うか……」
ゼブの港から数キロほど離れた海洋を、一隻の戦艦が進んでいる。その甲板に立って海を眺めるルクファールの表情は実に晴れやかだ。空に輝いている太陽の光を浴びて、ますます血色もよく満ち足りている。
「これほどまでに心が踊るのはいつぶりだろうか。ここしばらくの間、私は過去の失態を取り戻すのに大忙しだったからな。だが今は何とも清々しい気分だ」
「はぁ、嬉そうで何よりです」
「フフフ。やはり私には、フェニックスの力なぞ必要なかったな。そんなものがなくとも、この肉体一つでいくらでも他者を支配することが出来る。初めからこうしていればよかったんだ。暴力による支配など単純で面白みがないと思っていたが、必要な時は必要なものだな」
「クケェ」
「この船でウシャスに攻め込めば、残ったゼブ軍も戦わざるを得ない……というより、いくらテンセイたちが説得しようと無意味になる。そしてウシャスも応戦しなくてはならなくなる。そうなったらまたしばらくは静観だ。ほどほどに戦争が広まって、人々が疲弊しきった頃に私が現れて戦争を終わらせる。どうだ、なかなか上等なシナリオだろ?」
「はぁ。しかし、あのまま放っておいても、も、王たちはテンセイを無視して戦争を始めた、めた、と思いますが……」
「それはつまり、テンセイが将軍たちに殺されてしまう、ということだろう。殺さなければあいつは止まらないからな。それもまた面白いと言えば面白いのだが、やはりあいつはこの私が直々に殺してやらなければ気がすまないのだ。徹底的にあいつを引っぱり回して、肉体も精神も復帰不可能なまでズタボロに引き裂いて、絶望と悔恨に満ちた顔を見てやらなければならない。それこそが私の目標であり情熱なのだ」
その瞬間のことを思うと、ルクファールの笑みはまた一段と深くなる。魔王と化したルクファールでさえも支配できなかった男・テンセイに対し、凄まじい執着を抱いていた。それは憎悪や憤怒の情を超えた、ある意味畏怖の念ともとれる感情だった。その力を認めているからこそ執着する。
ゼブの軍人を従えて船を奪い取ったこともまた、ルクファールの心を盛り立てていた。神の力を失ってもなお自分には支配者の器があるという、一つの証明になってくれたからだ。もっともルクファールは一瞬たりとも自分の器に疑問を抱いたことはないが。
「この騒ぎに乗じてテンセイたちが広場から脱出してくれたならば上出来だ。全ては私の望みのままに動く」
現世に甦った魔王は、腕を広げて高らかに笑った。




