第258話・謀
フェニックスの炎は、神聖だがどこか冷徹な炎であった。一方ブルートの放つ炎は、ただただ熱い。内に眠る怒りと憎悪を象徴するかのように、荒々しい赤黒の炎が吹き荒れる。
「クソ、あの野郎!」
「ひぃ、待て、待て、私を見捨てるな」
ノームが憎らしげに叫ぶ。ノームの持つ身軽さを持ってすれば炎から逃れることはたやすいが、今は面倒な荷物がしがみついている。狼狽したサナギが服の裾を掴んで離さないのだ。せめて若い女性にしがみつかれるのなら気力も出るが、もはや人間かどうかも怪しい醜い科学者に身を寄せられては不愉快なばかりだ。
「離れろボケ! 固まってたら狙われやすいじゃねーか!」
「無茶、無茶言うな! 私が一人になったら、たら、それこそ真っ先に狙われてしまうじゃないか!」
二人が咄嗟に交わした意見はどちらも正論だが、どちらも正解ではなかった。ブルートの恨みの最大標的はテンセイであり、この二人は後回しにされたのだ。『紋』から発せられる炎の矢はテンセイに集中していた。だがブルートの炎は、本来なら不燃性である物質までも延焼させてしまう。新たな矢が射出される度に炎と炎が混じり合い、火災の規模を拡大していく。
「てめぇ! てめぇをブッ壊さなきゃ気がすまねぇ!」
ブルートが雄たけびを上げてテンセイに殴りかかった瞬間、ノームは素早く腰からナイフを取り出していた。無防備に曝されているその背中を狙うべく、熟練の正確さで腕を振り上げた。
「やめろノ-ム。手を出すな」
テンセイの声がノームを止めた。それは周囲の喧噪に対して静かな声であったが、不思議と深く脳裏に響いた。
「だけど、オッサン!」
ブルートの拳がテンセイの鼻面を襲う。しかしいくら軍人として鍛えているとはいえ、テンセイにとっては片目を瞑っていても十分見切ることの出来る拳だ。回避することは当然、怒りに燃える顔面にカウンターのパンチを叩き込むことさえ難しくない。あるいは、腕をへし折って戦闘不能にすることも可能だ。
だがテンセイは手を出さなかった。コサメを放さないようしっかり抱きとめ、拳をかわして逃げ回るだけであった。
何で反撃しないんだ、とノームは叫びそうになったがかろうじて堪えた。反撃してはならない状況であることに思い当ったからだ。
「クケ、このままじゃ、このままじゃ……!」
炎の壁はさらに広まり、周囲の軍人たちも避難を始めた。この炎を止める手段は水しかない。ブルートの暴走を止めて消火に当たらなければならないのだが、吹き荒れる炎に自分が触れてしまってはたちまちのうちに延焼してしまう。かといって手放しに逃げるわけにもいかず、どうするべきか戸惑っていた。
混乱は、一発の銃声によって鎮められた。暴徒と化したブルートの胸に弾丸が突き刺さり、内部の肉をえぐって飛びだした。貫かれたブルートは食いしばった歯の隙間から汚い血液を吐きだし、眼球を半回転させて仰向けに倒れた。
派手に血液が散ったが、急所は外してある。テンセイは素早くそのことを読み取った。
「とっとと連れて行って治療しろ。封輪つけた上で拘束すんのも忘れるな」
ブルートを狙撃した張本人、将軍ヒアクが部下に指示した。その右手にはめられていた装甲がいつの間にか変形しており、人差し指のあたりが銃口となっていた。
「お、お手数をおかけして申し訳ございませんヒアク様! しかしまず消火を……」
「問題ない」
答えたのはヒアクではなく、紳士然として佇むナキルであった。こちらも騒動の中で己の役割を察していたらしく、手に黒い鎖を携えていた。テンセイはナキルの能力を直接的に見たことはない。だがノームやラクラから話を聞いて概要は知っていた。
ナキルの繰る鎖が、伝説に登場する蛇神のごとく伸びる。ナキルは猛獣を使う奇術士のように鎖を操り、その先端を炎の延焼部分にぶつける。凍鎖の異名が示す通り、ナキルの『紋』は冷気を発する。『紋』が発生させた冷気は鎖を伝わり、燃え盛る炎の勢いを弱めた。鎖はあちらの炎からこちらの炎へと目まぐるしく跳ね、ついにナキルは一歩たりとも動かずに全ての炎を鎮めてしまった。
「フフ、テンセイよ。まずは一応、こちらの非を詫びておくとしようか」
炎が完全に消えた頃を見計らい、サダムが薄い笑みとともに語りかける。
「こちらの兵がとんだ無礼を働いたな。そちらに被害が出なくて実によかった」
白々しい芝居をするな。とノームは思ったが表には出さなかった。ブルートの炎の性質上、たとえ火の粉がいくらかかかっただけでも致命傷となってしまう。水で消さない限り炎が徐々に肉体を焼き、最終的に火だるまにしてしまうからだ。もし仮にテンセイやノームに炎が移ったならば、将軍たちはそのまま傍観し続けていただろう。ヒアクとナキルが暴走を止めた理由は、当然ながらテンセイを救うためではない。広場内に用意されている銃器類や弾薬に延焼し、大規模な爆発が起こることを防いだだけだ。テンセイ達が”不慮の事故”で焼き殺されることは全く構わないが、あまり炎が大きすぎても困るというわけである。
(アイツ程度の野郎にやられるぐらいなら、交渉を続ける価値もないってか。暴走までは予期してなかっただろうが、一瞬の間になんてとんでもねぇ事を考えやがるんだ……この連中は)
ノームは改めて、テンセイが反撃をさせなかった理由を思い返す。王の命令なしに動いたとはいえ、ブルートはゼブ軍人だ。それに少しでも傷をつけようものなら、テンセイ達を始末するのに十分な理由が出来てしまう。正当防衛などという概念は存在しない。それは以前思い知らされている。
将軍たちは、テンセイを始末しようと思えばいつでも出来る。だが敵陣の真っただ中に飛び込んできた者がただの無謀な男なのか、それとも真に勇ある者なのか、それを見極めようとしているのだ。
「ご丁寧にサナギまで庇ってくれたか。フフ、予想以上に興味深い連中よのう」
「ここで命をなくしたって、誰も救われないからな」
この一連の混乱の中で、王と将軍、そして傍観者のルクファールを除けば、ただ一人テンセイだけが変わらず冷静を保っていた。




