第224話・拠り所
人の本心を知り、人が何を望むのかを把握している者。それはつまり、どのような人間がどのような誘惑に弱いのかも知り尽くした者だ。実直で義理堅い男ヤコウをも懐柔させた手腕を持つ男は、ラクラを見下しながら愉悦に満ちた笑みを浮かべている。――この男は表情の変化が激しい。笑っていたかと思えば、相手の態度次第で途端に激昂したり興味をなくして無表情になったりする。とにかく取扱い要注意な男だ。
「ヤコウは……。どちらかと言えば中々骨のある男だったな。最終的に少しだけ能力を使うはめになった程だ。レンの方は楽だったが……」
レン。ラクラとヤコウの元上司でありながら部下となり、そして最後は裏切り者となった”新人教育者”。その名を口に出した瞬間、またもルクファールの表情は変化した。ニヤリと口を吊り上げる笑いから、吹きだしそうになるのを懸命に堪えている笑い方へ変わった。
「ああ、レンは実にやりやすかった。あれほど向上心を持っていると非常にやりやすい。いやいや、あれは向上心というよりも嫉妬だったな。才能ある若者に追い越された怒り。『紋』を持たないことへの嘆き。実戦で身が臆してしまう性質への苛立ちと悲しみ。肉体のピークを過ぎて徐々に肉体が年老いていくことへの焦り……。こんなにも誘惑しやすい材料が揃っていたのだからな」
その中のいくつかはお前に関連していることだ、とでも言わんばかりにルクファールは憐みの目を向ける。
「全ての人間がレンのようだとやりやすいのだがな。自分自身を支える術を持たず、心の休まる場所を求めている。そんな奴は、しがみつきやすい”何か”を用意してやれば簡単に食いついて離れなくなる。疑似餌で魚を釣るよりたやすいことだ」
ラクラは強い瞳でルクファールを見返している。その手に銃が握られていることは言うまでもない。二つの銃口は常にルクファールの眉間に狙いを定めている。
「ふん、何か言いたげな目だな。だが私の言っていることは少しもおかしくないぞ? 宗教だの信仰だのというものはそうやって生まれたんだ。他に頼るものがないから空想の神や仏に頼る。あるいは、尊敬できる英雄に。私はただそれらの代理を務めただけにすぎない。もっとも私がフェニックスの力を統一した後は全ての人間が私を崇めることになるのだが。レンはそんな世界の先駆者となれたのだから、さぞ幸福だったろう」
「……」
「ヤコウは面倒だったよ。彼は若く、自分の実力に対して過信しない程度に自信を持っていた。大層な愛国者……とまではいかないが、家族と仲間を守るために戦うという決意に嘘はなかった。それでいて無欲だ。いやはや、まったくいい男じゃあないか。人間が出来ていると言うかかえってつまらないと言うか。『紋』を持たないにも関わらず幹部にまでのし上がっただけのことはある」
ヤコウの名が出る度に、ラクラの顔にかすかな陰りが走る。そのことがルクファールの目を楽しませ、ますます舌を滑らせる。
「だがな、結局この世界に完璧な人間などいないのだよ。この私でさえ、少々怒りっぽいという欠点を持っているのだからなぁ。ヤコウは軍人として、そして幹部としての実力は十分にあった。だが私から見れば実に小さい力だ。まずはそのことを見せつけてやったよ。それが自信をへし折る一番の近道だ。あの時点で、彼がテンセイの持つ真の力に気付いていないことが幸いだった。もし知っていたなら、今のお前たちと同じように下らぬ希望にすがりついて、すぐには陥落出来なかったかもしれない」
「彼に、何を……?」
「ほう、やっと聞く気になったか。いいだろう。いくらでも語ってやる。しかしそう大したことはしていないぞ。初めに力の片鱗を見せつけ、次はひたすら言葉での説得だ。最後の最後で少しだけ魂の能力を使ったが、その時で七割方陥落できていたと思っているよ」
「説得、とは」
「だいたい想像がつかないか? 早い話、ウシャス軍が下手に抵抗するほど被害が大きくなるということを教えただけだ。思い返してみろ。たった数人の使節団が送り込まれただけでウシャスの軍本部は被害を受け、最優先して守るべきだったコサメをも奪われた。ウシャスの幹部が出し抜かれたことに対し、ゼブの将軍は姿を見せてすらいなかった」
ちなみに、この状況を作り出すように計画したのはルクファールだが、具体的な策を持ち出したのはサダムであると付け加えた。ルクファールがレンを手懐けたのはテンセイが王都へ渡るよりもずっと以前のことで、さらにそのことをサダムにも知らせていたのだ。
「ヤコウは情勢を正確に読み取る能力に長けていた。おかげですんなりと理解してくれたよ。とは言え、やはり初めのうちは否定的だった。いくら追い詰められていようと必ず逆転して見せると考えていた。それを否定させるために力を見せつけたのだがな。しかし今のお前たちほど頑固で愚かではなかった。繰り返し繰り返し言葉を重ねるにつれ、ウシャス軍の抵抗が無意味なものであると理解してくれた」
ラクラの陰はさらに深くなった。周到なゼブの罠に気づかず後手に回り続けていたあの状況、もしテンセイ達がゼブから帰ってこなければラクラも同じ結末を迎えていたかもしれない。
「私は彼に多くのことは要求しなかった。ただコサメをゼブに引き渡し、かつレンと協力してウシャスがゼブに下る準備をしてくれればいい、とだけ頼んだ。そうすれば大規模な戦を避けられるし、条件を呑んでくれたならば、ゼブがウシャスを奪った後も不当な搾取はしないと約束した。……このところが実に都合が良くてな。ヤコウは仲間や民が傷つくことを最も恐れていた。一方の私は、そんな小さき者たちが生きようが死のうが全く構わない。こちらからは何一つ失わない取引だ」
ゼブ国の目的と、ルクファールの目的は違う。ゼブが欲したのはウシャスの力と領地を奪い、比肩するもの無き最強の国へのし上がることであった。ルクファールの目的はさらにその奥にある。
「そこまで理解したのに、奴はまだ抵抗を示していた。レンとは違い、奴は最後の拠り所があったからな。わかるだろう? お前のことだよ、ラクラ・トゥエム。奴はお前のことを思って抵抗し、結局私も乱暴な手を使わざるを得なくなった」




