第199話・竜虎相討つ
ノームの両腕のヒジから先が、虚空に溶けるように消えた。蝶に触れられたのではない。自らの能力で腕をムジナの元へ転送したのだ。
(来るッ!)
アフディテは地を凝視する。足裏を貫かれるかもしれないという覚悟は済んでいた。それは防ぎようがない。だが、足を刺されても致命傷にはならない。その痛みに怯まず、逆にノームを仕留めてしまえば勝利が決定するからだ。
気力をみなぎらせる。感覚を最大にする。持てる全ての力を刹那の瞬間に集中させる。
集中していただけに、他方で起こった出来事に反応が遅れた。ドォン、という轟音が響いた。アフディテの近くではなく、森の中から聞こえてきた。潤んだ大気から水分を蒸発させるように、熱を持った物体が飛んでくる。
(銃っ!)
ただの銃ではない。ダグラスが使っていた爆弾銃の銃声だ。アフディテは直接爆弾銃の音を聞いたことはないが、直感的にそう受け取った。
ムジナは地中ではなく、森の中へ逃げていたのだ。どうりでいくら地面をえぐっても見つからないはずだ。完全に一杯喰わされていたことを悟り、アフディテは舌を巻いた。
(木の上に登って、私を爆弾銃で狙撃するつもりだった……!?)
と思ったが、違った。木の葉の中から飛び出してきたのは、爆弾ではなかった。逆だった。本来は飛ばない、飛ばされないはずのもの。ノームが銃を使ったことは確かだ。だが、銃で弾丸を飛ばすのではなく、銃自体を飛ばしてくるとは思わなかった。
「いっけェッ!」
ノームが叫んだ。ノームは銃を握って両腕をムジナへ転送し、そこでアフディテがいる方向の逆に銃口を向けて発砲したのだ。ダグラスの爆弾銃は、その名の通り爆弾を発射するために特別に作られた銃である。通常の弾丸よりも遥かに重く、径の大きい爆弾を飛ばす銃は、当然発射の際に生じる反動も強い。剛力のダグラスでなければ扱えないほどの衝撃。
ノームは一般の若者と比較すれば力はある方だが、銃の反動に耐えきれるほどには鍛えていない。ましてやこの時、銃を撃ったのはムジナの背から生えた腕だ。小柄なムジナではなおさら不可能。だがそれでいいのだ。反動に耐える気など初めからない。
(銃に乗って……。発射の衝撃でわざと吹き飛んで来たッ!)
正確には、発射と直後に起きた爆発の二つの衝撃の利用であった。ノームはすぐに腕を引っ込め、軽いムジナと銃を吹き飛ばしていた。飛ばす方向は、無論アフディテのやや上方へ一直線。
(早い。龍で迎撃できるかどうかは……確証なし! でも、受けて立つわ!)
龍を分解して蝶の壁を築くことも考えた。しかし、それでは勝てないだろうとすぐに思い至った。先ほどリークウェルがやって見せたばかりではないか。ただ壁を築くだけでは、それを強引に突破されることもありえる。銃に乗って飛来してくるムジナの速度なら、壁を突き破るに十分な攻撃が繰り出せるだろう。
(ここで確実に決着をつける。龍をぶつけて、完全に消滅させる!)
ムジナが迫る。龍は口を広げ、それを迎え討つ。
「悪いな、置いてくぞッ!」
「ぐっ……」
ノームが背中のリークウェルに声をかけ、素早く全身を転送した。支えをなくしたリークウェルは地面に落ちて取り残されたが、そちらを攻撃する余裕はアフディテにはない。ノームを仕留めさえすれば後からでもトドメを刺せる。
「おおッ!」
ムジナからノームの全身が現れた。手にはナイフを握っている。重量が増したことでムジナの飛行は急激に失速したが、この時点でアフディテのすぐ目の前にまで達していた。手を伸ばせば届く距離だ。
アフディテとノームの視線がかち合う。武器は違えど、剣術の達人同士がすれ違い様に斬りつけ合うのと同じだ。ナイフが『紋』を貫くが早いか、龍が飲み込むのが早いかの勝負だ。相討ちの可能性も高い。
勝利の天秤がどちらに傾いているのかは定かではない。有利、不利の概念もない。勝率はほぼ同じだ。どちらが勝ってもおかしくないほどの接戦。飛躍的な成長の過程にあるアフディテか、その強大な能力を相手にここまで持ち込んだノームか。武の女神がどちらに微笑むかで決着がつく。
「オラァァアアアッ!」
力と力が交錯する。光が舞い上がる。リークウェルからも、サダムからも、サナギ・サナミや宰相グックからも、光に紛れて二人の姿が見えなくなる。
巨大な龍がノームの居たあたりに突撃し、そのまま通り去って行く。後に何も残っていない。
……ノームが喰われたか、と一瞬誰もが思った。アフディテへ視線をやった瞬間、示し合わせたかのように全員が息を呑んだ。
アフディテの『紋』は無事だ。肉体のどこにも傷は付いていない。だが、ある者の意思次第でその身は切り裂かれるだろう。狭い杭の上に立つアフディテの背後に、重なるように寄り添う影――ノームの意思一つで。
「動くなよ。自分より年下の女の子傷つけるってのは、さすがに夢見が悪いんでね」
「……紳士道、というものかしら? でも私が反撃しようとしたらやらざるを得ないわね。そう、貴方は必ずそうする。戦士とはそういうものでしょう?」
「オレは戦士じゃあねぇから、知らね」
ノームの握るナイフは、『紋』の手前数ミリのところで停止していた。
「見事だわ。……そうね、考えれば予測できたことよね。もう一発爆弾を放って少しだけ加速するなんて」
「口で言うより簡単じゃあなかったぜ。この銃がやたらゴッツいもんだから、腕の骨が折れちまいそうだった」
「それでも折らずに、私の背後に回ってナイフを突きつけてきた。それが貴方の力。積み上げてきた成果。……私は、立ちあがるのが少し遅かったみたいね」
敗北を認めてもなお、アフディテは笑っていた。しかしそれは、麗らかな木漏れ日を思わせる穏やかな笑みだった。
三匹の龍が崩壊を始めた。砂の人形から水分を抜いたかのように全身が崩れ、おびただしい数の蝶が宙へ舞い上がる。蛍の光よりもずっと力強く、美しい光の粒が、ゆっくりと空を漂いながらアフディテの元へ戻っていく。その景色はまるで、舞台に幕を下ろすかのようだった。




