第193話・修羅の慟哭
ノームとムジナ、そしてリークウェル。三つの標的が巧みに動いて蝶をかわしていく。ムジナは基本的にノームから発信される命令によって行動するが、ある程度は自動走行も可能だ。”アフディテに近づけ””蝶を避けろ”この二つの命令さえ出せば、細かいルート選択や回避の手段はムジナが自動で判断する。ただし、それらの思考力は野生の獣と同程度だ。
「おらっ!」
ムジナを自動走行させたノームは、龍の攻撃をしのぐ事に専念している。リークウェルと比べれば動体視力も身のこなしも劣るが、ここ数ヶ月での濃密な経験やフェニックスの影響によって人並み以上にはなっている。空中からの龍を視認し、地中の龍を振動で感知することは可能だった。
「ちょびっと触れただけで大怪我になるのは怖いけどよ、この速さならなんとか見切れるぜ。だいたい、狙う敵が多いからあの娘も大変だろうよ」
標的が多ければ、一体あたりへの攻撃密度は低くなる。だがそもそもノーム本体への攻撃は牽制程度に留められていたのだ。
ノームの『紋』の能力に関する情報も、当然ゼブ軍は知っている。アフディテがノームの顔を見るのは初めてだが、必要な情報は戦闘前にアドニスから知らされていた。だからノーム本体を本気で狙うような真似はしない。たとえ先ほどのリークウェルのように罠にはめたとしても、一瞬早く肉体をムジナへ転送されてしまえば結局逃げられる。
(逆に、ムジナを仕留めればノームも倒せる。体が小さくてすばしっこいけど、その分蝶一頭だけでも命中すればダメージは十分……。ムジナがダメージを受ければそれはノームの『紋』へと還元されるって聞いたわ。なら狙うのはムジナとリークウェルだけ)
アフディテはまだ防御の蝶を増やさない。接近されるギリギリの距離まで攻撃に集中するつもりだ。
(大丈夫。相手の数が増えても大丈夫。今の私ならきっと上手くいく)
人間は、その人生の中で急激な進化を遂げることがある。進化のきっかけやシチュエーションは様々だが、進化を遂げた人間は一時的に肉体や精神が活性化する。ウシャスの軍本部において「新人教育のレン」とテンセイが戦った時、レンは進化した。テンセイも新たに目覚めつつあった。ラクラが乱入したため進化は途中で止まったが、戦いの鐘が鳴り響いた瞬間、二人の生命力は限界にまで輝いていた。
心臓の鼓動が強く響き、それでいて安定したリズムを保っている。全身の細胞がしっかり機能していることを感じる。体温も高まるが、病的なものではない。高まった熱は強力なエネルギーとなって体外へ放出されていく。この二人の場合は、肉体を突き動かすためのエネルギーとなって。
アフディテにも同じ事が起きていた。アフディテの場合は肉体を動かすためのエネルギーではないが、代わりに『紋』の能力としてエネルギーが放たれていた。これまでずっと溜め込んできた力が、ダムに穴が開いたかのごとく流れ出ていく。
(見えるわ。ムジナとリークウェルの動く軌道が見える。本当はもっと速いのだろうけど、私は二人の次の動作が読めてる……。なんだか不思議な気分。状況は二対一、ユタが目覚めれば三対一になってしまうのに、少しも焦りを感じないわ)
汗は全くかいていない。表情にも焦りの色はないが、かといって無表情でもない。口の端を軽く吊り上げ、目尻を垂らして顔に円をつくり――それは、笑顔といってもよかった。
(見えるから、わかる。私が敵対している相手は二人ともかなりの凄腕だってことが。真正面から仕掛けても、半端な罠を張っても倒せない。相手を圧倒的に出し抜くような、決定的な一手が必要。それを考えるのが、とても楽しい)
アフディテの体内に流れる王の血。自らが戦争の最前線に立ち、常に戦い続けてきた戦士の血。それは、強者との戦いに遭遇して熱く燃え立っていた。自分の持つ全身全霊の力をかけて戦える相手がいることに、喜びと楽しみを感じていた。
二匹の龍を操り、変形や分裂、結合を繰り返してリークウェルやムジナを攻める。蝶のひとつひとつにしっかりと意思が通っている。自身の指先を動かすよりも簡単に蝶を動かす事が出来た。
(あの男……リークウェルは、わざと私の蝶に足を斬らせてまでアドニスを倒した。理屈ではそれしかないとわかっていても、常人には決して実行できない戦略だわ。今の私だって思い出しただけでゾッとする)
アフディテから見えるリークウェルの表情は、少しも苦痛に歪んでいない。実際には顔の半分が布で隠されているため目元でしか判断できないのだが、そう見えた。サナギの登場で一度は乱れた呼吸も、戦闘の空気の中で再び正常に戻っている。
(修羅……という言葉をアドニスから聞いたことがあるわ。世界各地に残る神話に登場する神々の中でも、とりわけ武術と戦争の道に秀でた究極の戦神。転じて想像を絶する実力と不屈の精神を持つ武人のことをそう呼ぶ……って。リークウェルはきっとそう)
チラリと、視線を変える。向けた先は、木に背を預けて佇む巨躯の男だった。
(あの人も、いいえ、あの人こそが本物の修羅だわ。……私にはその血が流れている。修羅の血が。この『紋』が何よりの証拠)
何度も、何度も、自分の『紋』を呪ってきた。どうしてこんな力が備わってしまったのかと。初めから何の力も持っていなければ悲劇は起こらなかったのだ、と。しかし、今は違う。今は理解している。
(私のこの力は、今この場で、勝利を掴むための力。アドニスは私に優しくしてくれた。そのアドニスはあの人とゼブという国を敬愛していた。私の力は、ゼブを守るための力)
アフディテの進化のきっかけ。それは、自分の進むべき道を見出したことだ。目的は精神を突き動かすパワーになる。
エネルギーが胸の内に集まり、確かな自信と結びついてさらに高められていく。
(いける!)
そして、アフディテの胸から新たな蝶の龍が現れた。先の二匹と合わせ、都合三匹の龍が大地の上を暴れ出す。




