第168話・獅子
手負いの獅子が、ゆっくりと三人(正確には四人)の方を振り向いた。闇のせいではっきりとした表情は見えないが、少なくとも余裕の笑みは浮かべていないようだ。
「……ウシャス、か。遅い登場だな」
意外にもダグラスの方から声をかけてきた。その手には銃を握っているが、互いの距離はまだ少し遠い。爆弾を放てば届くだろうが、それよりも先に回避することは可能な十分に距離だ。逆もまた然り。ラクラの銃の射程圏内でもあるが、一撃で仕留めるのは難しい。
「前に会ったな。名前は……ラクラ・トゥエムだったな。オレは人の顔と名前を覚えるのが得意なんだ。美女限定だけどよ」
「貴方の名はダグラスと言いましたね。『フラッド』随一の破壊者」
「そっちも覚えててくれてたのか。光栄だな」
口ではふざけたこ事をしゃべっているが、目は全く笑っていない。右手に銃を持ったその姿からは紛れもなく本物の殺気が溢れ出ている。しかし、万全ではない。極力表情には出さないようにしているのだろうが、苦痛をこらえていることは三人の誰もが見抜いていた。
「他の仲間はどちらに? その傷はゼブの人間から受けたものですか?」
「お嬢様とのおしゃべりは嫌いじゃあねぇんだけどな、今はそんな余裕ねぇんだ。さっさと消えてくれたらありがたい」
ダグラスの右手がゆっくりと持ち上がり、銃口をラクラに向けた。
鏡に写したかのように、ラクラも同じ動作をとっていた。互いの照準はピッタリと相手の顔を狙っている。ただし、同じなのは右腕の動作だけで、左腕の様子は全く違う。ラクラは灯りのランプを握っているが、ダグラスは自身の腹部、へその横あたりを押さえている。
(……出血量を見るに、あの傷穴はかなり大きいはずです。おそらくはフーリを殺害したものとほぼ同じ弾丸を受けたのでしょう)
暗がりに目を凝らして観察すると、衣服の一部を裂いて包帯代わりに腹部に巻きつけていることがわかる。
この状況でラクラが判断した目標は、ダグラスを捕えることであった。『フラッド』の強さは緻密なチームワークにあり、とは誰もが等しく認識している事項である。その『フラッド』のメンバーがたった一人で、しかも決して浅くない傷を負って目の前にいる。この千載一遇のチャンスを逃がす手はない。
「貴方が人並み外れた実力者だということは承知しています。東支部交戦時に一度戦いましたから。しかし、今は条件が違います」
「条件? おいおい、まさか未だに有利だとか不利だとかって話を持ち出すんじゃあねーだろうな。いい加減わからねぇのか? オレたち相手に、そんな一般論は通用しねぇって」
「貴方”たち”ならばその通りでしょう」
ダグラスの眉がかすかに揺れた。ラクラは確信する。ここでトリガーを引けば、ダグラスを倒すことは可能だと。理屈ではなく全身の感覚で結論を下した。
(銃を持つ両手を撃てば、ほぼ無力化できるでしょう。相手が少しでもあの指を動かそうとしたならば――)
ためらうことなく撃つ。ラクラは覚悟も準備も全てが整っていた。
しかし、この男の覚悟は、ラクラのそれとは異質なものだった。
「銃を下げていいぜ、隊長」
こう発言した男にとっての覚悟とは、自分にとって有利な状況で睨みあうことではない。ましてや、背後から不意打ちをくわえることでもない。
「ノームも止まれ。奴に近付くな」
「えっ」
ノームはラクラの後方に立ち、ダグラスの動作に注目している。一切特別な行動はしていない。と、断片的に判断するのならばそれも誤りではないが、実際はすでに行動を起こしていた。ノーム自身ではなく、『紋』から出現させたムジナが、どころどころに点在する草の塊を利用してダグラスに接近を試みていたのだ。
「そこで止まっててくれ。後はオレに任せろ」
ムジナの位置は、ダグラスとラクラを結ぶ直線状からやや離れた、標的までの距離十メートルほどの草陰であった。ダグラスに気づかれた様子はなく、このまま進めば暗殺も可能だとノームは思っていた。
「オッサン?」
ノームがテンセイの真意を聞こうと首を動かした時、テンセイが一歩を踏み出した。
「ど、どういうつもりです!? テンセイさん!」
テンセイは、真っ直ぐダグラスへ向かって歩き出した。背中にコサメの入った包みを担いでいる他、武器も盾も持たずに歩を進めていく。
「てめぇは……リクが言ってた、フェニックスの持ち主か。名前も聞いたけど忘れちまったな。お前はどう見ても美女じゃあないんで」
「覚えておいた方がいいぜ? フェニックスを持ってるのオレじゃなくて、こっちのレディだからな。今はちっこいけど将来はかなりの美人になるぜ」
親指で自身の背中を示し、さらに進む。もはや完全に狙い撃ちが可能な距離にまで近づいていた。
「へっ、そいつぁ楽しみだな。で? だから撃つなとでも言いたいのか? 関係ないな。一度だけ警告しておくぜ。それ以上こっちに近付いてくるな。将来の美女を台無しにしたくなけりゃあよぉ」
「こいつを盾にする気なんかねぇよ。ただ、お前と戦いたいから前に出ただけさ」
「あ?」
「オレは銃も持ってないし、こっそり近づくのも苦手なんでな」
正気か、この男。ダグラスの目がそう語っている。テンセイは背後からも似たような視線を感じつつ、ニヤリと笑ってみせた。ただし、背後からの戸惑いがちな視線は一人分だ。
「なんだよオッサン。火ィついちまったのかよ」
ノームだけがテンセイの意思を理解できたらしい。
「ああ。こいつが強いってのは、オレもよく知ってる。だから……遠くから追い詰めたり、奇襲を仕掛けただけじゃあ敗北しねぇ」
「は、買い被ってくれるな」
ダグラスが口元だけで笑った。だが、それはすぐに消えた。
「こいつに負けを認めさせるには、小細工なしで真正面から叩き潰すのが一番だ」
「てっ……」
決して挑発のつもりで吐いた言葉ではないが、ダグラスに行動を起こさせるには十分であった。
「てめぇ! 認めるも何もオレが負けるかってんだッ!」
手負いの獅子が咆哮を上げた。




