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第126話・閉ざされた盗賊

 黒龍のウロコを思わせる雲が隙間なく空を覆い、絶え間なく雨を落としている。龍は水を司るという伝説は古来より存在するが、まさしくそれだ。船が南へ進めば進むほど雨量は多くなり、雲の上にもう一つ海があるのではないかと空想させるほどの水が人口の船を襲う。この環境を最大限に活用しているのがナキルであり、ノームとラクラは龍に翻弄されている。


 ラクラは攻撃をしのぎながら反撃のチャンスをうかがっているが、ノームの方は文字通り手詰まりの状態である。取り囲む氷を砕こうと懸命にあがくが、成果は少しもあがりそうにない。


(せめて、せめてムジナが通れるだけの隙間が出来りゃあ……!)


 幾度もナイフを振るうノームの視界が、急に白く曇り出した。吐く息の水分が冷気にさらされて白い結晶になっているのだが、これに気づいた瞬間、ノームは全身の寒気を意識した。氷に囲まれているのだから当然だが、無意識のうちにマヒさせていた感覚がじわじわと戻ってきてしまった。


「んぐ……むッ!?」


 突然ノームが奇声をあげた。いや、あげようとした。吐いた息が、そのまま上下の唇にまとわりついて凍り始めたのだ。驚いて強引に口を開くと、唇の皮が破れて口中に血の味が広がった。


「ってぇ……」


 口の中に流れ込んでくる血を甲板の床に吐き出した。と、その血は床についた直後、しみとなってこびりつくよりも先に紅い氷と化したノームは呼吸を止めた。だが長くは続かない。少しでも息が鼻や口から漏れれば、瞬時に凍りついてその場所をふさいでしまう。


(このままじゃ窒息する……! 早く、早くここを出ねーとヤバい!)


 左手で口と鼻を押さえつつ、右手でなおもナイフを振るいあげる。が、振り上げた右手のヒジが、氷の壁にぶつかった。先ほど掘削をしていた時は、ヒジが壁にぶつかるようなことはなかった。動作を大きくしたつもりはないのに、今はぶつかる。


(まさか!)


 ノームは窒息よりも危険な事実にようやく気がついた。氷の壁は、内側にむかって厚みを増していたのだ。それはノームの行動範囲を狭めるという効果もあるが、それ以上の意味を持つ。


『一度だけ忠告してやるぞ。私の能力に触れることは、自身を氷像と化させることに等しい』


 ナキルの言葉がよみがえった。


(窒息じゃねぇ! このままオレを凍りつかせる気だ!)


 気づくのが少し遅かった。この時、すでにノームの右ひざとつま先、そして左の足裏が、氷の接着剤によって床に貼り付いていたのだ。引きはがそうと脚に力をこめるが、釘でも打たれかのように動かない。


 背中が壁に触れる。慌てて壁から離れるが、今度はヒジが壁に当たる。呼吸が荒くなり、顔の半分が白いマスクに覆われる。雨に濡れた肉体は冷気に対しあまりに脆弱だ。氷の侵食が進む。腕が。ヒジが。背中が。氷に覆われて壁と同化していく。




 暗闇に目が慣れてきた。万全ではないが、闇の中をかける鎖の軌道が徐々に読めてきた。紙一重で分銅を回避すると同時に狙いを定め、撃った。


 宇宙を駆ける流星のように光が闇を駆け抜け、標的・ナキルの腕をかすめた。


「ぐぅ……」


 この戦いで初めて、ナキルの口からうめき声がこぼれた。


「さすがは幹部。よくここまで持ちこたえ、そしてよく狙いを定められたな」


 すぐに余裕めいた言葉で繕うものの、額に流れるのは雨粒だけではなさそうだ。


(あと九発――! もう少しタイミングを掴むことが出来れば、この弾数で足りる!)


 しかしながら、ナキルの言葉はその通りだ。ラクラを幹部たらしめている要因は、何といっても白兵戦の強さにある。反撃が困難だと判断すれば回避に専念して時間をかせぎ、少しでも相手の技を見切ることに集中する。「出来ない」を「出来る」へもっていくまでのこと。


 いかに鎖の動きが早くても、銃には敵わない。ほんの一瞬でも動作を止めることが出来れば攻守を入れ替えることはたやすい。次の一発が成功すれば、ただちに総攻撃を仕掛けるとラクラは決意した。


 鎖が高く舞い、ラクラの脳天めがけて落ちてきた。今の反撃が効いたのか、直線的で単純な軌道だった。素早くラクラは右に飛んだ。


(かわした!)


 飛んだ瞬間にはすでに狙いをつけている。あとは引き金の指に力を入れるだけ。が、力が入らなかった。何の予兆もなく訪れた突然の激痛によって、発射のタイミングが遅れた。


「くッ!」


 痛みを堪えて指を動かすも、標的はすでに移動していた。大事な弾丸が一発、海の果てへと飛んで行った。


「時間をかければ見切られる。それは承知していた。短時間ですぐに殺せるような相手でないこともわかっていた。だから、こちらも先に手を打っておいた。長引くほどこちらが有利になる策をな」


 ラクラの右腕に、深い切り傷が出来ていた。傷口からあふれた鮮血が空中に浮いたままわずかに細く流れ、じきに凍りついた。


「氷の……ワイヤー?」


 ラクラの腕を斬り裂いたのは、細く鋭い氷のワイヤーだった。マストと甲板の縁を直線状に結んだワイヤーに、ラクラの方から突っ込んだのだ。


「お察しの通りだ。鎖を振るうついでに、君の周りへ張り巡らせてもらった。気をつけろ。下手に動くとすぐズタボロになるぞ」


 話しながらナキルが鎖を振る。ラクラの反撃は失敗した。攻撃の主導権はいまだナキルにある。


「うっ!」


 鎖をよけようとしたラクラが、今度は別のワイヤーで頬を斬った。その直後に鎖が軌道を変えて左手に直撃し、握っていた銃を弾き飛ばした。


 ナキルの能力は、『紋付き』であるナキル自身が触れた物を凍らせるだけの能力だ。本来の能力射程はかなり短い。だが、自身の肉体や手に持った鎖から発する冷気は、あたりに有り余っている水を凍らせて次々に伝わり、結果として手の届かない場所まで能力の影響を及ぼしていた。雨と波はナキルにとって最高の舞台であった。


(しまった……!)


 回避すべき対象が増えた以上、ラクラは反撃はおろか銃を拾う余裕さえ奪われた。またしても土俵際の攻防戦に追い詰められた。


 そして、見てしまった。視界の隅にそれが映った。


 氷に閉ざされ、身動き一つしなくなったノームの姿を。

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