北のはずれで終わりの続きを1
そこはかの有名な歌謡曲で〝北の外れ〟と称された青森県竜飛岬。
年がら年中強い風が吹き荒れることで知られているその場所は、津軽海峡に面している。
強風に煽られた雲は、なにかに追い立てられているかのように、急ぎ足で去って行く。風に巻き上げられた海水が岸壁を濡らし、セットした髪も、新調した春服も全部滅茶苦茶になってしまうようなこの場所で、私は真剣な面持ちでプレゼンをしていた。
「これは太宰治の小説『津軽』です。彼が、親しい編集者から生まれ故郷である津軽のことを書いてみないか、と誘われたのがきっかけで執筆した自伝的小説なのですが」
ここまで言い切ってから、ほんのり後悔する。
太宰治という作家はその胸の内に、複雑で、それでいて粘着質で、本質は純でありながらも汚れきった、見るに堪えない感情を内包している人なのだと私は考えている。だからこそ、彼の作品や人となりを説明するのにいつも苦労する。簡単に言い表せられるように思えて、単純な言葉を並べただけでは強烈な違和感に見舞われてしまうからだ。
事実、この『津軽』の本編も、早世した作家たちの名を連ねるところから始まる。
恐らく、太宰が筆を執った理由は、原稿を依頼されたというだけではないだろう。
己のルーツを辿る〝巡礼〟の旅……太宰のおくってきた人生を鑑みると、その意味を軽く捉えることはできない。その人生は、とても拗くれていて、薄暗く、いつだってか細い光に手を伸ばし続けているようなものだったからだ。そのせいか、どうにも説明が難しい。
正直、そこが太宰治の好きなところだ。しかし、こうも名状しがたい思いに駆られると、喋りづらくて仕方がない。けれど、やらねばならないのだ。このプレゼンの成功に、多くのあやかしたちの生活が懸かっている。私は手の中の『津軽』に背中を押されるように、緊張で声がうわずりそうになるのを堪えつつも続けた。
「実は、作中にここ竜飛岬も登場します。太宰は自分にゆかりのある地を巡っているわけですが、黒神さんにとっても馴染み深い地名がたくさん出てくると思うんです。それって、すごく面白くありませんか!」
私の話を聞いているのは、まるで山のように大きな巨体を持った男だ。
その男は、全身が夜色で染まっていた。鍛え上げられたしなやかな体も、艶やかな肌も、ゴワゴワした腰まで伸びた長髪も、尖った爪先も、額から生えた鋭い角すらも黒一色だ。
男は、海中で体育座りをしている。水上に出ているのは、男の腰から上だけなのだが、それだけで恐らく二階建ての建物ほどの高さがあるだろう。一体、立ち上がったらどれほどになるのだろうと、あまりの途方のなさに想像するだけで目眩がした。
彼の名は「黒神」。ここ津軽海峡を作ったと言われている伝説の神だ。
私の話を、黒神は朝焼けの空を思わせる暁色の瞳をまん丸にして聞いている。
「というわけで、私が提案するのは、太宰治『津軽』巡礼の旅です! 作中の場所を巡りつつ『食ひ物に淡泊なれ』と決意して出発したわりには、美味しそうな食べものをお腹いっぱい食べ、お酒をしこたま飲んだ彼にならって、この時期にしか味わえない青森の美食と春の景色を満喫しませんか!」
自信たっぷりに言い切って、じん、と余韻に浸る。
――ああ! なんて完璧な計画だろうか。
本を持って旅に赴き、旅先で美味しいものをたんまり食べる……!
なんて贅沢。なんて幸福な時間。これならば、黒神も満足してくれるはずだ……!
そんな確信で胸がいっぱいになっていると、ゴツンと脳天にチョップが落ちてきた。痛みに耐えながら顔を上げると、それは酷く複雑そうな顔をした水明だ。
「お前は馬鹿なのか。それをしたいのは、他でもないお前自身だろう」
「えっ」
思わず間抜けな声を上げると、にゃあさんとクロも続いた。
「夏織……アンタ大丈夫なの? それって、聖地巡りって奴よね。太宰治が好きなのはわかるけれど、それって原作を知らない相手にも楽しめるものなのかしら」
「確かに! オイラは正直これっぽっちも惹かれないな!」
「ひっ」
あまりにも正論。クロとにゃあさんのわんにゃんコンビの容赦ない言葉に涙ぐむ。
すると、追い打ちをかけるように、にゃあさんが呆れ混じりに言った。
「まあ、夏織の気持ちもわからないではないけれど。太宰治って東雲に顔が似てるし」
「……っ! ちょ、にゃあさん!」
「ほんっっっと、アンタってば東雲が好きよね。そりゃゆかりの地巡りもしたくなるわ」
「やめっ……! うううううっ! 本当にやめて……」
顔を真っ赤にして蹲る。にゃあさんの言葉を飾らないところは好きだけれど、時に暴力的なほどに突き刺さるので正直勘弁して欲しい。
ちら、と横目で黒神の様子を確認する。彼は、牙が生えそろった口を半開きにして私を見つめていた。どうやら、私のプランは彼の心に響かなかったらしい……。
――どうしよう……!
あまりのことに途方に暮れる。
私は、迷子になった子どものような心境になると、数時間前のできごとに想いを馳せた。




