閑話 幸せの定義、幸せのありか8:幸せな結末
移動している間、秋穂は常にはしゃいでいた。
灼熱地獄を通り過ぎれば、暑い! と大騒ぎし、すれ違う地獄の官吏ひとりひとりに手を振っていた。幽世へ入ったら入ったで、纏わり付いてくる幻光蝶に目を丸くし、古びた町並みに歴史を感じて感心している。
「そういえば、最近は旅行すらしてなかったなあ……」
自分が置かれた状況を理解しているのか、していないのか……いまいちよくわからないが、秋穂はほんの僅かな間の旅路を楽しんでいるようだった。
そして――あたしは貸本屋の前にある建物の屋根に着地すると、炎で揺らぎを作り、秋穂ごと姿を隠した。
「……ここ?」
「そうよ、ここに夏織がいる」
秋穂は真剣な顔つきになると、あたしの影に隠れ、他よりもややボロく見えるその建物を見つめた。そして、入り口にある看板に目をとめるとぽつんと呟いた。
「……貸本……」
そして、ガラス戸の奥の光景に目を凝らす。すると、そこにずらりと本が並んでいるのが見えたのか、秋穂はほうと熱い息を吐いた。――その時だ。
「うわあああああん……」
貸本屋から子どもの泣き声が聞こえてきた。同時に酷く焦ったような男の声。
そしてガタガタと忙しない音が聞こえたかと思うと、大きな半纏を羽織った東雲が店の外に出てきた。
「……夏織!」
すると、東雲の半纏の中に泣いている夏織を見つけて、秋穂は腰を浮かした。
「なにをするつもり?」
すかさず制止すると、秋穂は苦しげに眉を顰めた。渋々腰を下ろして、じっと夏織たちの様子を見守る。
「あああああああ!!」
その間も、夏織は顔を真っ赤にして泣いている。癇癪を起こしているらしい。
「ママあああああ! ママああああ……!」
どうやら母親が恋しくなってしまったようだ。小さな手を伸ばして泣き叫んでいる。
それを見た秋穂は、苦しげにぎゅっと両手を握った。
「駄目よ。あの子、こうなると本当にどうしようもないの。私が抱っこしてあげなくちゃ、いつまでも泣いているんだから。ああ……」
今すぐにでも抱きしめてやりたいのだろう。秋穂はソワソワして落ち着かない。けれど、今この場で出て行ったらすべてが台無しだ。堪えてもらうしかない。
夏織の泣き声が静まりかえった幽世の町に響いている。いつまで経っても泣き止む様子がない夏織に些かじれったさを感じていると、ようやく東雲が動いた。
「……ああ、ちくしょう。悪いな、あやすのが下手くそで」
東雲は半纏の中に入れた夏織を、不器用な手付きで強く抱きしめると、その背中をとんとんと叩き始めた。
「こうだったか? ええと……」
そして、恐る恐るといった様子で、リズムに合わせてゆっくりと揺れ始めた。
ゆら、ゆら、ゆら。ゆうら、ゆらゆら、ゆうらり。
誰かに子どものあやし方を教わったのだろうか。どこか不規則な揺れ方をした東雲は、夏織の耳もとに口を寄せて優しい声で言った。
「泣くな、泣くなよ、大丈夫だ」
そしてゆっくりと目を瞑り、静かに、そして穏やかに言葉を重ねた。
「なーんも、心配することはねえよ。俺がいる。俺がいるからな……」
けれど、すぐに泣き止む訳もなく、ひたすら泣き続ける夏織に辛抱強く語りかけている。
それが十分ほど続いた頃だろうか。
ようやく泣き止んだ夏織は、泣きはらした真っ赤な顔で東雲を見つめた。
そのことに心底安堵したのだろう。東雲は目尻にたっぷりと皺を作ると、やけに嬉しそうに笑った。
「いい子だな、夏織はいい子だ」
そして、くるりと貸本屋の入り口へ足を向けると、どこか弾んだ声で言った。
「本を読もう。布団の中で読んでやる。なにを読む?」
すると夏織はパッと表情を明るくして、元気よく言った。
「ねずみさんのごほん! カステラをやくの」
「あれか。夏織はあの本が好きだなあ」
「うん!」
そして、お互いに笑顔になって店内に消えて行く。ピシャン、と引き戸が閉まる音がすると、幽世の町にまた静けさが戻ってきた。
ふわり、目の前を幻光蝶が通り過ぎていく。あたしはやたら明るい光を放っている蝶を視線で追うと、静かに肩を震わせている秋穂の傍に寄り添った。すると、秋穂はあたしをぎゅうと強く抱きしめてきた。ポタポタ落ちた熱い雫が、あたしの毛並みの上を何粒も何粒も滑り落ちていく。あたしは幽世の赤い空を見上げると、まるで独り言みたいに言った。
「……あたしの子どもは、もっと早くに独り立ちしたわ」
すると、どこか弱々しい声が返ってきた。
「猫と一緒にしないでよ……。人間の独り立ちはもっと先」
あたしは小さく笑うと、また独り言を零す。
「なにも、みんなと同じ必要はないと思うけどね。母親からの独り立ちが少し早かったって、別に構いやしないわよ。確実なのは、秋穂って人間があの子をあそこまで立派に育てたってこと。あんた、頑張ったわよ」
「ううっ……」
秋穂はあたしを抱きしめる力を強めると、声を震わせながら言った。
「それでも、私は母親でいたかったよ……。あの子をまだ見守っていたかった」
顔を上げて、現し世とはまったく違う赤い空を見上げる。
「あの子が辛い時、傍にいたかった。上手にできたら褒めてあげたかった。成長を喜びたかった。美味しいご飯を作ってあげたかった。一緒に笑って、泣いて、苦しくても悲しくても、それでも一緒にいたかった!!」
夏織とそっくりな丸い瞳から、ポロポロと涙の雫が落ちる。
「私の人生、間違ってばっかりだ。どうして――死ななくちゃいけないの。可愛い娘を遺して、どうして死ななくちゃ……!」
己の不幸を嘆いた秋穂は、次の瞬間、必死な顔であたしに懇願した。
「猫ちゃん。あたしの代わりに、あの子の母親になって」
「……秋穂」
「ねえ、お願い。あの子を幸せにしてあげて。あの子を守ってあげて。出会ってから間もないのに、こんなことを頼むなんて馬鹿馬鹿しいかもしれないけど、頼めるのはあなたしかいないの。……ねえ、お願い!!」
あたしは儚く消えて行く涙に視線を奪われながら、小さく首を横に振った。
「無理よ。あたしは猫。あの子は人間。それは変えようがない」
「そんなの気の持ちようよ。どうにでもなるじゃない……っ!! どうしてなの。死にゆく人間の願いくらい、聞き届けてくれたっていいでしょ!!」
秋穂は、まるで先ほどの夏織のように癇癪を起こしている。あたしはため息をひとつ零すと、その顔をべろりと舐めてやった。
「……っ!!」
猫特有のザラザラした舌、それも特大のに舐められて全身鳥肌が立ったらしい秋穂は、引き攣った顔をして硬直してしまった。あたしはそんな秋穂の額と自分の額をくっつけると、ゆっくりと口を開いた。
「あの子の母親は、他の誰でもない。あんたでしょ」
秋穂はピクリと身を縮めると、小さく震えながら言った。
「じゃあどうすればいいの。あの子になにかしてあげたいのに、なにもできないなんて」
俯いてしまった秋穂に頭を擦り付ける。あたしは顔を上げた秋穂の目をまっすぐに見つめると、両の目を細めて言った。
「あたしが……夏織の友だちになってあげるわ」
驚きのあまりに目を見開いた秋穂に、ゆっくりと瞬きをしながら続ける。
「親でも兄妹でもない存在で一番近いのは友だちだもの。あたしがあの子の傍にいる。大丈夫よ、あたしはあやかし。人間と違ってお金に目が眩んだりしないわ」
言外に秋穂を裏切った親友のことを匂わすと、秋穂は一瞬キョトンとして、それからすぐにまた泣き顔になった。そして、あたしの体毛に顔を埋めると弱々しい声で言った。
「……本当に?」
「嘘はつかないわ」
「絶対よ、約束して」
「約束する。あたしはあの子が死ぬまで傍にいるわ。不幸にならないように、いつだって陽だまりみたいな笑顔を浮かべられるように見ていてあげる。だってあの子は――……」
そして、一瞬だけ言い淀むと、そっぽを向いて言った。
「友だちの大切な子どもだもの」
「……えっ?」
言いたいことを言い終わると、あたしは秋穂の首根っこを咥え、自分の背に向かって勢いよく投げた。
「ひ、ひええっ! な、なに。なんなの!」
あたしの背中に秋穂がしがみついたのを確認すると、問答無用で夜空に舞い上がる。
地面が遠ざかり、星が近づく。秋穂の匂いに誘われ集まって来た光る蝶を引き連れ、どんどん空を駆け上っていく。やがて、幽世の町の家々が米粒みたいに小さくなった頃、あたしはようやく昇るのを止めた。
「猫ちゃん? ど、どこに行くの!」
「さあね?」
「叔父さんの旅館に戻るの……?」
怯えた声を出した秋穂に、あたしは悪戯っぽく笑って言った。
「あら、帰りたいの?」
すると秋穂は勢いよく首を振って否定した。
「夏織の無事も確認したし、人のお金を勝手に使い込んでいる人の顔なんて見たくない」
そして、すうと深く息を吸うと、大きな声で叫んだ。
「これ以上、搾取されて堪るか! 私は奴隷じゃないんだ……!!」
「その意気よ」
あたしは笑みを浮かべると、南に進路を取って飛び始めた。
「ねえ秋穂。だったら、あんたも神隠しに遭っちゃいなさいよ」
「へ……?」
間抜けな声を上げた秋穂に、あたしは話を続ける。
「もう長くないのなら、それまであたしが付き合ってあげるわ。旅行、最近行ってないんでしょ。知らない場所、行ってみたくはない? あたしが連れて行ってあげる。最期まで看取ってもあげるわ。それで――」
あたしは一旦言葉を句切ると、少しだけ考えた。けれど、自分はあやかしだからとすぐに話を再開した。
「あんたの亡骸を食べてあげる」
「…………っ!」
秋穂が動揺しているのを知りつつも、あたしはしれっと続けた。
「知ってる? あやかしが誰かを弔う時の方法はひとつしかない。その死を悲しみ、一緒に過ごした時間を思い返しながら、亡骸を自らの内に取り込むの。骨を、そして肉を喰らって、相手の想いを自身へと刻み込む。だから、食べてあげる。そうすればきっと……あんたの想いも、願いも――夏織の傍にいられる」
――断られるかしら。
一息で言い切って、ほんのり後悔の念を抱く。
自分はあやかしとは言え、この行為が人間の感覚からすればありえないことくらいは知っている。聞こえのいい言葉を選んでみたものの、生理的に受け付けない可能性の方が高いだろう。そうなったらそうなったで仕方がない。あたしは自嘲気味に笑みを零すと、秋穂の反応を待った。しかし、秋穂はあたしの予想を見事に裏切った。
忘れていた。そうだ、この女は――「変な女」だったのだ!
興奮気味に叫んだ秋穂は、あたしの首に力一杯抱きつくと言った。
「あの叔父夫婦には本当に頭に来てたのよ。あの調子じゃ、死亡保険金も搾取するつもりだったろうし。私、失踪するわ。そうしたら七年間は死亡認定されないのよ、保険金だって下りないわ! ざまあみろ!」
すると秋穂はあたしの身体をよじ登ってきた。そして頭の上まで来ると、顔に覆い被さるようにぶら下がる。危ないことをするなと文句を言おうと口を開きかけたその時、あたしの視界に入り込んだ秋穂はまるで太陽みたいな笑みを浮かべていた。
「あたし、このままじゃ誰にも死を悼まれないまま終わるところだった。猫ちゃん。あなたには助けられてばかりね。本当にありがとう――」
そして、また大粒の涙を零した。
冬の冷たい風に吹かれたその涙は、周囲を舞い飛ぶ幻光蝶の光を取り込み、そして幽世の赤い空を写し取って深紅に煌く。
それは、今まで見たこともないほどに尊く輝き、そして風に乗って流れていった。
――ああ。なんて綺麗なの。
あたしは、瞬きする間その涙に見蕩れると、次の瞬間には笑みを浮かべた。
「礼には及ばないわ。さあ、行きましょう? 時間がないわ。秋穂の見たことがないものが、この世界には山ほどあるんだから」
「うん!」
ひゅう、と風を切って幽世の空を征く。空気を蹴り、星を、そして月を目指して跳ねる。そのたびに秋穂は笑顔になって、あたしは得意になってまた大きく飛んだ。
秋穂は眼下の光景を、そして自身に纏わり付く蝶をうっとりと眺めている。
「猫ちゃん。世界って綺麗で……とっても素敵ね! いつか夏織にも見せてあげたい!」
「大丈夫よ、あたしに任せておいて。あたしが絶対に見せてあげるから」
すると秋穂は、少し浮かれた様子であたしに訊ねた。
「ねえ、猫ちゃん。そう言えば、君の名前は?」
あたしは少しだけ考え込むと、自身の名を告げた。すると――。
「にゃあ! 可愛い名前。短い間だろうけど、よろしくね! にゃあちゃん……!」
秋穂はそう言って、気持ち良さそうに空に浮かぶ月を眺めた。
寒い寒い冬の夜。あたしは猫だ。寒いのはまっぴらごめん。
だけどこの日ばかりは、友と蝶を引き連れて飛ぶのが、驚くくらいに心地よかった。
* * *
――ああ。夏織が泣いている。母の迎えた結末を知って、あの頃よりは随分と大人しく感じる声で泣いている。秋穂はなんて言っていたっけ。自分がいないと駄目だとソワソワしていたんだった。今の夏織は、ひとりで泣き止むことができるのだろうか……。
母親が死んでいたことがショックだったのだろう。話を聞き終わると、夏織はおもむろにあたしを抱きしめて泣き始めた。母親についてある程度予感はしていたのだろうが、それでも事実として受け入れるのに時間を要しているようだ。
あたしは自分を包み込む暖かな体温を感じながら、淡々と話を続けた。
「それからあたしは、秋穂と旅に出た。あちこち行ったわ。幽世も現し世も。いろんなところにふたりで行った。秋穂の体調は決してよくはなかったけれど、限界まで旅はやめなかった」
その間、秋穂は自分のことを語ってくれた。
小さいころの思い出。学生のころに学んだこと。今好きなもの。昔好きだったもの。楽しかったこと。初めての恋。亡き夫との出会い。初めて夏織を抱っこした時のこと――。
それは秋穂の人生そのものだった。
温かくて、楽しくて、苦しくて、寂しくて、山あり谷ありのごくごく普通の人生。
きっとそれは、自分のことを夏織に遺したい一心からくるものだったのだと思う。
秋穂の言葉はすべて、夏織のためのものだ。
あたしは早々にそれに気がつくと、一言だって忘れまいと記憶に刻みつけた。
「秋穂、言ってたわ。いつか……夏織が大人になって、すべてを受け入れられる心の強さを持った時――自分のことを話してほしいって」
あたしは苦い笑みを零すと、泣き続けている夏織に話しかけた。
「今まで黙っていてごめんなさいね。あたしがあなたから母親を奪ったの」
――よかれと思った。
これが正解なのだと、当時は考えていた。
けれど今になって、自分の判断は間違っていたのではないかとも思う。
夏織が、実の親のことを知らないと悩むなんて想像もしてなかった。
すべてあたしの判断ミスのせいだ。やっぱり、少しの間でも現し世へ戻すべきだった。
あたしの感覚がもっと人間よりだったなら、こんな失敗はしなかったろうに。
やっぱり、どうあがいてもあたしはあやかし。そして夏織は人間だった。
「恨んでくれていいわ。嫌いになってもいいわ。それでも、夏織を見守るのは止めないけれど。悪いわね。友人との約束なのよ」
友との大事な約束。それを破るなんてことはできない。夏織にどう思われたとしても、あたしはこの子を最期まで見守る義務があるのだ。
あたしは夏織の腕から抜け出すと、部屋を出ようとした。あたしたちには時間が必要だと思ったからだ。けれど――すぐに後ろから抱きしめられて、動けなくなってしまった。
「……夏織?」
思わず声を掛けると、泣いてばかりで無言だった夏織がようやく口を開いた。
「にゃ……さん。お母さんは……なんて言ってたの?」
「え?」
「お母さんは……最期、私になにか言葉を遺した?」
その瞬間、秋穂の最期の時を思い出して胸が苦しくなった。
秋穂の命はあれから数ヶ月と保たなかった。春を待たずに命を散らした秋穂を、約束通りにあたしは食べたのだ。だから、あたしの中には今も秋穂の想いが眠っている。
あたしはその場に座ると、窓の外――冬空に浮かぶ大きな月を眺め、身体の底で穏やかな海のように揺蕩っている想いを解き放った。
「夏織」
死の間際――親友がなによりも大切な娘の名前を呼んだ時のように。優しく、ひとつひとつの単語に愛情を籠めて。寒々しい冬に春を呼び込む風のように言った。
「夏織……幸せになって」
脳裏には、秋穂の穏やかな死に顔が思い浮かんでいる。
まるで眠るように息を引き取った秋穂。出会った時とは比べものにならないほどに痩せてしまっていたけれど、最期の最期まで彼女は笑っていた。
「……どうか、誰よりも幸せに――」
多くは望まない。どうか満ち足りた人生を送ってほしい。
それは秋穂が最期に抱いた願い。そして――今のあたしの願いだった。
「そっか」
夏織はそれだけ言うと、洟を啜り、あたしを強く抱きしめて頬ずりした。
「ねえ、夏織。怒らないの?」
思わず訊ねると、夏織は一瞬だけ黙り込み、そして笑い混じりに言った。
「怒る必要がどこにあるの? よくわからないな」
そして夏織は、泣いているような笑っているような複雑な表情を浮かべると、ぽろり、一粒の涙を零して――こう言ったのだ。
「今の話でわかったのは、私がたくさんの人に愛されていたってことだけだよ」
その顔が、あまりにも秋穂にそっくりだったものだから。
「……夏織、幸せ?」
あたしは思わずこう訊ねた。すると、夏織は間を開けることなく直ぐさま答えた。
「もちろん。間違いなく、幸せだよ」
「……そう」
あたしは尻尾をゆっくりと振ると、あの日秋穂と飛んだ時とそっくりな空を見上げて、なあんと一声鳴いた。




