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エピローグ:父と娘の約束

  八百比丘尼入定洞での騒動が終焉を迎え、私たちの日常が戻ってきた。

  東雲さんや玉樹さんの怪我は順調に回復していき、出版に向けての準備で忙しそうにしていた。八百比丘尼がしたことは、決して許されることではないけれど、東雲さんは不問にすることにしたようだ。


「……アイツの気持ち、わからんでもないからな」


  東雲さんはそう言って、少しばかり寂しそうな顔をしていた。左腕を失った八百比丘尼は、今までどおりに魂の休息所で働いている。しかし、今回のことは彼女の中の何かを変えたらしい。以前よりも、救われる魂が増えたのだと風の噂で聞いた。


  まだ、内心は八百比丘尼を許せない部分もある。けれど、どうにも嫌いになれない。だから私は、距離感を間違えないようにと注意しながら、「いつも通り」に接することに決めた。八百比丘尼も、少し困ったような顔はするものの、頼まれた本を持っていくたびにアレコレと「いつも通り」に口うるさく言ってくれ、それが少しうざったいような、くすぐったいような……私たちは、そんな関係を続けている。


  ――あの事件のせいで、私たちの関係性が「変わらなくて」よかったと、しみじみ思う。

  変わるもの、変わらないもの。

  両方が絶妙なバランスで成り立っている状況が、一番居心地がいいと思うから。




  そして――秋も終わりに近づき、幽世にもそろそろ冬の気配がやってきた頃。


 外の気温はぐっと下がり、木枯らしが窓をカタカタ揺らしている。例年からすると、まだ暖房を入れるには少々早い時期のはずなのだけれど、耐えきれずに火鉢を出すくらいには冷え込んでいる。


「東雲さん、出版おめでとう」

「おう! ありがとうな」

「まだみんなが来る前なんだから、飲みすぎたら駄目だよ」

「わかってるって」


  東雲さんの愛用のぐい飲みに、奮発して買ってきた上等な日本酒を注ぐ。東雲さんは、その様子を嬉しそうに眺めて、表面張力が限界に達しそうなところで、唇を窄めてちゅっと啜った。

  明日は、とうとう東雲さんの本の発売日だ。店頭での貸し出しはもちろん、希望者には本の販売もするという。それを前に、今日は出版記念パーティーをする予定だ。


  ――そう。もうすぐ、東雲さんの夢が叶おうとしているのだ。


「夏織、料理はこれで最後か?」

「あ、うん。ありがとう、水明」


  台所から、大きな皿を手にした水明がやってきた。皿に盛られているのは、わが家にしては結構なご馳走。今日のために、腕によりをかけて料理をこしらえたのだが……。


「みんな、遅いねえ」


  予定時間を過ぎても、まだ誰もこない。しびれを切らした東雲さんは、ひとりで飲み始めてしまった。


 その時、またカタカタと風で窓が鳴った。中庭に生えていた紅葉は、すっかり葉を散らしてしまって、寒そうな姿を晒している。ここ最近、急に冷え込んできたからか、空をきままに飛び回るあやかしの姿も滅多に見なくなった。特に、獣由来のあやかしの姿は激減している。きっと棲み家に引きこもっているのだろう。その証拠に、わが家の縁側にも、大きな毛玉(、、)がごろんと転がっている。


 それは、にゃあさんとクロだった。黒毛のふたりがぴったりとくっついて寝ていると、境目がよくわからなくなって、何やら別の生き物に見えてくるから面白い。いつも、目が合うと喧嘩を始めるふたりだけれど、こうしているとなんだかんだ言っても仲がいいのかとも思う。


「……うっ……重……す、水明……逃げて……」

「スピー……スピー……んにゃっ⁉ ……スピー……」


 ……下敷きにされたクロがうなされているのが、若干、気になるけれど。

 因みに、熟睡しているように見えるにゃあさんは、寝ぼけて引っ掻いてくる時がある。正直、クロの安眠はちっとも保証されていない。


「……にゃあさん、どかした方がいいかな?」

「嫌なら自分から逃げる。気にしなくていい」

「そっか」


 過保護のように見えて、意外とクロの意思を尊重している水明である。私はくすりと笑うと、人数分の取り皿を用意しようと、台所に足を向けた。その時だ、にわかに玄関の方が騒がしくなった。


「あ〜‼︎ 寒かった〜‼︎ もう、なんなのよ。この冷え込み。まだ冬になるには早いんじゃないの。おかげで、時間に遅れちゃったじゃない」

「遅刻したのは、ナナシがお気に入りの毛皮のコートがないとか言って、部屋の中をひっくり返してたからだろ⁉︎」

「だよね〜。なんで、僕たちがそれに付き合わなくちゃいけないのかなあ」


  それは、ナナシと金目銀目だった。三人はワーワー騒ぎながら家に入ってくると、居間になだれ込んできた。


「遅れてごめんなさいね。東雲、出版おめでとう。とっておきの古酒持ってきたわよ!」

「俺らは、大天狗のジジィから雉肉預かってきた。鍋にしようぜ、鍋!」

「夏織、台所借りるね〜。京都でお豆腐も買ってきたんだよ〜」


  するとそれを機に、どんどんと客人がわが家にやってきた。


「東雲、出版おめでとう。前々から思っていたんだが、今回のこと……貸本屋から出版事業に至った、かの鎌倉文庫の軌跡をなぞっているようだとは思わないかね。素晴らしい‼ 友人として誇りに思う」


  次にやってきたのは、東京合羽橋で雑貨店を営んでいる河童のあやかし、遠近さんだ。彼は、現し世で大々的に商売をしている。今回の出版に当たって、印刷の手配をしてくれたのも遠近さんだ。ダンディーな口髭をたくわえ、ハイブランドのスーツに身を包んだ遠近さんは、帽子を取ってつるりと頭の皿を撫でると、ふむと悩ましげに言った。


「さて。出版自体はめでたいことではあるのだが……。どうすれば、かの鎌倉文庫の二の舞を防げるのか、それについて話し合う必要がありそうだ。問題は、お前は川端康成じゃないし、三島由紀夫の短篇を掲載もしておらず、編纂に遠藤周作が携わっていないという部分が大きいと思うのだが。ああ、こりゃあ駄目だ。このままじゃ、鎌倉文庫のように倒産してしまう!」

「てめえは、なんで初めから失敗前提で話し始めるんだ、怒るぞ‼︎ あと、絶対無理な条件を挙げるな」


  遠近さんは、ハハハと愉快そうに笑うと、東雲さんと膝をつき合わせて楽しそうに議論を始めた。いつもの光景を微笑ましく思っていると、更に人がやってきて、部屋が狭く感じるほどに、居間はあやかしたちで溢れてしまった。


「おめでとう! これ、食ってくれよ」

「早く読みたいねえ。うちのことも載ってるんだろ?」

「遠い親戚がな、今度、自分とこの話も聞いてくれって」


 近所に棲むあやかしたちや、お店の常連客……更には、ただ通りすがっただけだというあやかしが集まってきて、みんな笑顔で東雲さんの出版を祝福している。東雲さんは、嬉しそうに彼らに応対していて、とても忙しそうだ。


  けれど、その中にある人物の姿がないことに気がついた。

 その人は、東雲さんと一緒に苦労して本を作り上げた、一番の功労者。

 私はこっそりと店を抜け出すと、大通りに出て周囲を見回した。

 すると、通りの壁に寄りかかって、ひとり佇んでいる玉樹さんを見つけた。玉樹さんは、ド派手な襟巻きを首に巻いて、赤くなった鼻を啜っている。サングラスの奥から、ちろりと私を見ると……不機嫌そうに目を瞑ってしまった。


「ここにいたんだ。みんな待ってるよ」


  私が声をかけると、玉樹さんは鼻で笑った。


「自分を? そうですかねえ? こういうめでたい日に、自分は不釣り合いだって重々承知しているもんで、あえて遠慮してたんですがね」

「相変わらず捻くれてるね。……そういうのはいいから入ろう? 寒いし」

「ハハハ。容赦がない。流石、東雲の娘」


  すると、玉樹さんはくるりと踵を返すと、ひらひらと手を振った。


「自分はやることがありましてね。今日は遠慮しておきますわ」

「……やること?」

「ええ。お嬢さん、気がつきませんかい? 今回の騒動――誰かが関与してるんじゃないかってね」


  意味が理解できずに、目を瞬く。すると、玉樹さんは顔だけをこちらに向けて、白く濁った右目で私をじっと見つめながら言った。


「貸本屋の地下に隠されていた東雲の『本体』のありかを、誰があの尼僧に教えたんでしょうねえ。そもそも、あの尼僧の父親に『竜宮の土産』を渡した人物は、一体、何者だったんでしょう? 人魚の肉なんて物騒な……他人の人生を狂わせるようなものを、簡単に人にやるだなんて……赦せません」


  それは、いつも飄々としている玉樹さんが初めて見せた、「怒り」の感情だった。


「自分は、人魚の肉を配っている野郎を探している。何食わぬ顔で、どこかに混じっているソイツを探しているんですわ。だから、お祝いに参加してる時間はなくてね」

「……その人に、何かされたんですか」

「さあ? どうでしょうかねえ」


  玉樹さんは、そのことについて詳しくは語ってくれなかった。そして、「東雲によろしく言っておいてくだせえ」と、再び手を振ると、ゆっくりと歩き出した。


「あの! どこに行くんですか! また、うちに来てくれますよね?」


  思わず、その背中に声をかける。なんとなく、その存在が遠くに行ってしまうような気がしたからだ。すると、玉樹さんは足を止めて、私に背を向けたまま言った。


「さあね。お嬢さんも、あの元祓い屋の少年みたいに気をつけた方がいいですぜ。自分は、味方にも敵にもなるかもしれません。信用ならねえと思っているくらいがちょうどいい」

「――嫌です!」

「はっ……?」


  思わず、反射的に拒否すると、玉樹さんは何とも間の抜けた顔でこちらに振り返った。かっこよく去ろうとしたのかもしれないが、そんなものさせてたまるものか。


「玉樹さん、私が沖縄に本を届けた時のこと、覚えていますか。キジムナーの女の子の夢だけじゃなく、お父さんの夢まで叶うように、情報をくれましたよね。それに八百比丘尼の時だって……予め、彼女の不幸な生い立ちを教えてくれたのは、一方的に悪人だって思わないようにっていうことじゃないんですか」

「……与えられた情報を、どう扱うかはお嬢さん次第ですぜ?」

「でも、その情報を玉樹さんが与えてくれなかったら、私は違う判断をしていたかもしれません。確かに、絶対の信頼を置くのは難しいかもしれませんけど……それは、玉樹さんのことを深く知らないからでしょう? だから……私は、信頼できないだなんて、疑いの目であなたを見ることはしたくないんです」


  すると、玉樹さんは盛大にため息をつくと、帽子の鍔を左手で下げて言った。


「好きにすればいいんじゃないですか。自分は物語屋。物語は、受け取る側によって悪の話にも善の話にもなる。くれぐれも、どう『解釈』するかは――ご注意くだせえ」


  そして――。


「……どうせまた、東雲の野郎が本を作るって騒ぐでしょうから。原稿ができそうな頃合いに、また来ますわ」


  玉樹さんはそう言うと、ニヤリと笑って頭を下げ、ふわりと羽織を翻すと、颯爽と幽世の町に消えていったのだった。




  玉樹さんを見送った後、店に戻った私は、母屋の居間に入った瞬間、何故か東雲さんに捕まってしまった。状況がわからずに戸惑っていると、居間にぎゅうぎゅうに座ったみんなが、手にグラスを持っていることに気がついた。どうやら、ちょうど乾杯の音頭を取ろうとしていたらしい。


  私の肩を抱いた東雲さんは、私にオレンジジュースの入ったグラスを握らせた。そして、集まったみんなをぐるりと見回すと、ゴホンと咳払いをしてから語り始めた。


「お前ら、集まってくれてありがとう。念願の本を出せて嬉しい限りだ。……どうやら、物語屋は逃げ出したみたいだから勘弁してくれ。アイツ、恥ずかしがり屋なんだよ」


  どっと笑いが巻き起こる。東雲さんは少しの間、微笑んでいたかと思うと、キリリと表情を引き締めて言った。


「幽世初の本……正直、この先どう転ぶかわからねえ。俺としては、これを機に、幽世で沢山の物語や本が創られることを望んでいる。本は……心を温かくしてくれる。世界を広げてくれる。そこには『本物』も『偽物』もねえ。ただ、無限の世界が広がっている。俺は、それはすげえことだと思うんだ」


  東雲さんは、少し照れ臭そうに笑うと、話を続けた。


「俺の作った本も、誰かにそういう体験を与えられたらいいなと思ってる。それもこれも、ここにいる俺の娘が協力してくれたお陰だ」

「え……」


  驚いて、東雲さんの顔を見上げる。すると、東雲さんはどこか誇らしげに言った。


「俺がこういうめでたい日を迎えられたのも、夏織がいたからだ。俺は、夢を叶えてくれたコイツに、恩返しをしなくちゃならねえ。今日、俺は約束するぞ。この一冊に終わらず、幽世発の本をもっと世に送り出す。そんでもって、うちの娘を幽世で一番幸せにしてやるんだ。だからみんな、協力してくれよな」

「親馬鹿かよ!」

「当たり前だ。娘は可愛いに決まってんだろ⁉︎」


  あちこちから飛んでくる野次に、東雲さんは笑って応えている。

  私はと言うと、顔が熱くて、油断すると涙が溢れそうで――どう反応すればいいかわからなかった。すると、東雲さんはニッカリと白い歯を見せて笑うと、私の頭をくしゃりと撫でた。そして、満面の笑顔をみんなに向けて言った。


「娘が誇れる父親になれるように頑張るぜ。だから、娘共々よろしく頼む。――乾杯‼」

「「「「乾杯‼」」」」

「おめでとう!」

「頑張るのよ、東雲‼ アタシも応援してるわ!」

「オッサン、原稿の締切は守れよ‼」

「悪いが、そればっかりは約束はできねえ‼」

「「「「――わははははは‼」」」」


 部屋の中は、みんなの笑いで溢れている。私は、オレンジジュースを一口だけ飲むと、ちらりと窓の外に視線を投げた。


「あ……」


 すると、空から白いものが落ちてきているのが見えた。

 随分と早い冬の知らせだ。外はかなり冷え込んでいるのだろう。けれども部屋の中は、あやかしたちの熱気で熱いくらいだ。私は、微笑みを浮かべると――ひとつ夢を叶え、そしてまた新しい夢に向かって歩き出した東雲さんの背中を見つめた。


 ――これからも、この人の「娘」でいられるように。私も頑張ろう。


 ポカポカしっぱなしの胸に手を当てて。

 私も笑みを浮かべて、みんなの輪に入っていったのだった。

二章、これにておしまいです。

お付き合いいただき、誠にありがとうございました!

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