憧れ
青崎は回想する。
───姉様!姉様!起きてください!
まだ幼さが残る高い声色に、布団に突っ伏していた人物は顔を苦悶に歪めながら耳を抑える。そのまま布団の中に沈み込もうとする頭は、傍らの少女によって阻止された。
「朝稽古の時間に間に合いませんよ!どうして一人で起きられないんですか!?」
「うぅ……勘弁してくれ、私の可愛い妹。お前の声は頭に響いてな……」
「響かせなければびくともしないではないですか!お酒を飲み過ぎた成人達のようなことを言わないでください!」
とうとう観念した姉が、ぼさぼさの髪を振り回しながらむくりと上半身を起こす。格式高い和式の寝室に不釣り合いな様相に、妹の怒りは更に加速する。
「~~~~~!今すぐ身だしなみを整えてください!これでは青崎家の次期当主として他家の者に示しが付きません!」
「そうは言ってもなぁ……どこから手を付けたものか」
「ああ、もう、櫛を貸してください!化粧台に無かったのですがどこにやったのですか!」
普段は冷たい美貌を元気に怒りで振り回しながら、他人の部屋の散策を好き勝手に始めた妹を見ながら、その妹に似た自分の顔を柔和な笑みにした姉は、ふわぁ~っと一つあくびをした。
「───遅い」
威厳のある皺の顔に更に皺を足しながら、老年の男が言った。
「申し訳ありません、お父様」
対して姉は、欠片も申し訳なさを感じない表情で表面だけの言葉を浮かべる。それもそのはずで、このやり取りは行われない日の方が少ない程繰り返されてきたものだった。
「青崎家が代々受け継いできた『魔力の祖』の力を完全な形で受け継いだのは、もはやお前しかいないのだ。その『英雄の血』を持つ者の責務の重大さを、お前は本当に分かっているのか?」
「ええ、分かっていますとも。このお話をしたのも一度や二度ではありませんから」
「お前は……」
更に苦言を呈そうとして、やめた。こんな説教に効果があった試しが無いのを今までの経験から察する他無かったからだ。代わりに、後ろから付いてきていた小さな影に目を向ける。
「それで、これから朝稽古な訳だが……何故お前が付いてきている?そこの愚かな姉と違い早起きなのはいい心がけだが、暇でも持て余したか?」
「……その、お父様にお願いしたいことがありまして」
小さな影こと妹は、姉と正反対の、緊張を滲ませた真剣な表情で父の顔を見上げた。
「私も今日で12歳です。どうか、稽古に加わらせてください」
「駄目だ。理由は伝えた筈だが、忘れたのか?」
ぐっと、妹の顔が悔しそうに歪む。その理由とは、妹は姉と違って『英雄の血』を受け継ぐことが無かったからというものだった。つまり、妹に求められたものは始祖の血で人を守るための剣になることではなく、始祖の血を後世に継いでいくという役目だったからだ。そんな役目の者には、傷一つ付けるわけにはいかない。
しかしそれは、姉という『英雄』に憧れた妹にとって、認めがたい現実だった。だから少女は、年齢に反して成熟した頭で、前日から練ってきた説得の言葉を綴る。
「この吸血鬼と人類の最前線である北壁で、異分子殲滅隊がどれ程戦力不足かは私でも知っています。なのに、吸血鬼の侵攻は日々厳しくなるばかりです。今はまだ魔力を持つ者が貴族だけだからというのもあり現在は志願制ですが、そのうちそうも言えなくなるのは目に見えています。その時、事前に訓練を受けていた方が、私のお役目を果たすのにも好都合かと思います」
渋る家庭教師らから絞り出した情報を元に組み立てた妹なりの理論。
「駄目だ」
それでも、父は表情一つ変えることなく一刀両断した。普段父に礼儀正しい妹も、思わず声を荒げる。
「な、何故ですか!」
「お前が想定しているような事態にはならないからだ。少なくとも、青崎家はな」
「貴族家の中でも、色の名を関する家は特に力があるのは理解しています。その分、融通が利くというのも分かります。ですが、それだけでどうして言い切れるんですか!」
「そこに居るのが、『英雄の血』だからだ」
そう言って父は、妹の健闘をにこにこしながら黙って見守っていた姉に視線を向けた。
「お前は稽古に参加したことが無いから知らないだろうが、『英雄の血』はただの魔力持ちとは次元の違う存在だ。そいつが戦場に立つ日が来れば、自ずと皆が理解することになる。『魔力の祖』の血を確実に受け継いでいくことが、たかが魔力持ちの隊員一人を増やすことよりもずっと重大なことだとな」
「……そう、ですか」
自分の理屈ががどうあっても通じないと理解した妹が、顔を暗くして伏せる。そこでようやく、ずっと隣に立っていた姉が口を開いた。
「まあまあ、敬愛なるお父様。なにも私たちと同じ内容をさせないといけないわけではありません。あくまで護身術程度に、最低限の身の守り方を教えてあげればいいのです。本格的な戦闘術の稽古でも怪我をしないかどうかは、その後からでも判別すればいいでしょう?それに、案外すぐに音を上げるかもしれませんよ?」
「そいつはお前のような怠惰ではない。そもそもお前は妹の我儘を通したいだけだろう。まさか、先ほどの理屈もお前の入れ知恵か?」
「まさか。可愛い妹が戦場に立たなければならないような世の中にさせる気なんてさらさらありませんし、この珠のような肌に傷が付くのを一番恐れているのも私です」
「ならば自分の妹は自分で説得しておくべきだったな」
「この子は態度だけは素直ですが、頑固です。そうやって頭ごなしに全部否定しても、良くないことに繋がると思いますが」
「……」
一見普段通りの柔和な笑みなままの姉の目が、淡い蒼の光を纏った。青崎家次期当主であることを否応なしに理解させる、象徴の光。
そこに居るのはもう、怠惰なだけの娘ではなく、明確に青崎家の、いや、魔力持ち達の頂点に立つ存在の気迫だった。父はこういう時にしかその風貌を見せない姉に呆れたように、吐き捨てた。
「そう思うならば、好きにすればいい」
「……!ありがとうございます、お父様」
妹の顔がたちまちに明るくなる。それを尻目に、父はさっさと屋敷の奥の方に引っ込んでいく。残された妹は、はっとしたように顔を引き締めると姉に向かい合った。
「お姉様、助力していただきありがとうございました」
「可愛い妹の為だからな。それで、今日から始めるのか?」
「可能であれは、勿論です」
稽古が容易いものでもないと良く理解している筈の賢い妹が、それでも淀みなくそう返事するのを聞いた姉は、稽古に参加しなくてはならなくなったばかりの頃の自分の態度を思い出して苦笑した。
───その日の夜。
妹は、姉の部屋でぐったりと倒れ込んでた。この頃めっきりと甘えてくれることが少なくなった妹の、久しぶりの夜間訪問に、姉は上機嫌に膝の上へ迎え入れる。
「私の勤勉な妹も、初日は流石に堪えたようだな?」
「こ、これくらいのこと、どうってことありません」
「やめさせたりなんてしないから、姉の前では素直になっても良いんだぞ?」
「……疲れました。とても」
年を重ねるにつれてあっという間に少しも緩んだ姿を見せなくなった妹が、こんな風体になっているのだから、姉はその言葉の重みをよく理解していた。だからこそ、姉はどうしても疑問に思っていたことがあった。
「しかし、私の可愛い妹はどうして戦うことなんて覚えようと思ったんだ?お前が私に憧れているのは勿論知っているけれど、賢いお前は、私に追いつくための手段が戦うことだけではないと分かっているだろう?」
「姉様も、私に戦うことは向いていないと思いますか……?」
「そういうことではない。お前は優秀だから、やろうと思えばなんだってできるさ。だからこそ、わざわざこんな辛くて危険な道を選ぼうとしているのかが私には分からないんだ」
「『英雄の血』を持つ姉様にとっても、戦うことは辛くて危険な道ですか?」
姉は瞳を少し揺らして、一呼吸分だけ言葉を止めた。そして、少し自虐的に答える。
「分からないな。私もまだ、吸血鬼と戦ったことは無いからな。怠惰な私にとって、身体を鍛えることが辛いってことだけは確かだが」
「私は……私は、姉様を本当に怠惰だと思ったことはありません」
妹の意外な言葉に、姉は目を丸くする。いつの間にか上体を起こしていた妹は、すぐそばにある姉の目を真っ直ぐに覗き込む。
「みんな、姉様を強い人と言います。私もそう思っていますが……同じくらい、弱い人だとも思うのです」
誤魔化しの効かない見透かすような真っ直ぐな瞳に射貫かれて、姉は暫く呆然としていた。そして迷うように何度か言葉なく口を動かすと、妹の体温を求めるようにその身体を抱きしめた。
「……駄目な姉の、弱音を聞いてくれるか?」
「……姉様が駄目なのは、今に始まったことでは無いですから」
「そうか……」
姉は尚も迷うように視線を彷徨わせていたが、やがて、か細い声で語った。
「私はな、戦うのが怖くて仕方ないんだ。自分が大きな力を持っているのも知っている。吸血鬼に勝ててしまうような先輩すら、私には手も足も出ない。なのに、臆病な私は、戦うこと自体が怖くて仕方ない。遠目に吸血鬼との戦いを見た時も、震えが止まらなかった」
「それを知っている人は、他にも居るのですか……?」
「いいや、お前だけだよ。言えない。言えるわけない。私は、『英雄』として育てられたんだから」
妹は、姉の身体がか弱く震えていることに気付いた。強くて、憧れで、だらしない、常に飄々としている姉。こんな姿を見るのは、初めてのことだった。
「はは、幻滅したか?お前の姉は、本当はこんな駄目な奴なんだ」
「……姉様」
頼りがいのある姉の背中ばかり見てきた妹は───何でもないように言った。
「そんなことだろうと思っていました」
「……え?」
「言ったでしょう?私は、姉様を本当に怠惰だと思ったこともありませんし、姉様が駄目なのも、今に始まったことではないと。全部、お見通しです」
「……はは、そうか」
戦う未来を想起させる稽古が怖くて、どうしても真剣に向かい合うことが出来ないこと。ただ面倒くさがっているように見せかけていたのも、妹には見透かされていた。
こんなことで、いざという時にしっかり戦うことが出来るのか。不安は日に日に膨れ上がっていき、姉は重責と恐怖の板挟みに段々限界を感じていた。
「けど、大丈夫です」
しかし妹は、自信満々に言い放つ。
「私が姉様と同じくらい強くなればいいんです。私が姉様を守ります。そうすれば全部解決です」
ただ、現実が見えていない子供のような言葉。しかし姉は、妹が年不相応に賢いということも、励ましの為だけにこんなことを言う子でもないことも、よく知っていた。
姉は、自分のことを妹の憧れだと言ったのは訂正しなければならないと思った。憧れなんて言葉で表せるほど、自分の可愛い妹は自分から離れた場所には居ないと分かったから。
「お前には、敵わないな。私の可愛いくて、賢くて、強い妹」
「ちょっと、姉様、私はただの励ましのつもりで言ったわけではありませんよ?」
「ああ、分かっている。分かっているさ」
姉は、誰よりも妹の本気を信じることが出来た。だからこそ、やはり自分は戦わなければならないと強く思った。
どれだけ戦うのが怖かったとしても……姉にとっては、愛しい妹を失うことの方が怖かったから。




