許さない
少しづつ、少しづつ、壊れる音だけはずっとしていた。
初めて吸血鬼の力を使った時も、頭の中で、何かが軋んで……少しだけ壊れて、何もなかったかのように元通り。
自分を覆っている殻みたいな何かは、見た目だけ元通りになりながら、少しづづ壊れ、軋み、削れ、脆くなる。外から叩かれて、内から圧迫されて。
そしてついに壊れた殻の中から、黒くてどろりとした怪物が溢れてくる。それは今までとどめておけていたのが嘘みたいに、濁流となって溢れ出してくる。
そのまま何もかも滅茶苦茶になろうとして……誰かの手が、殻の破片を拾い上げた。そして怪物の元まで持ってくると、元通りの形に組み上げて、また閉じようとする。
再び抑えつけられ、殻の中に戻っていく怪物。けれど、罅だらけの殻から、一滴だけ黒いものが零れて───
ぽたりと、床に一滴の血が落ちた。
それが何処から落ちたのか一瞬分からなかったが、すぐに自分の口の端から零れ落ちたのだと気付いた。口を手で覆うと、ぐちゃりという奇妙な音が鳴る。
ついさっきからやけに広くなってきた視界を使って、周りを見渡す。そこには吸血鬼の磔ばかりが羅列されていて、動くものは何一つなかった。
鈴の元に今すぐにでも到着したいのに、さっきからやたら吸血鬼に襲われる。この姿は確かに目立つかもしれないけれど、それにしたって明らかにおかしい量の吸血鬼が僕の元に集っていた。
血を奪って、それを使って殺して、また血を奪う。キリのない光景にいい加減イライラしてきていたところだったけれど、ようやく一区切りついたようだった。匂いを辿るのを再開しようとして───
「あ、ぐぅぅぅぅ……!」
酷い頭痛がして、堪えきれずに膝を折る。そう、さっきからずっとこれだ。
血を奪う度に、頭の中に知らない光景や知らない知識や知らない声や匂いや触感がどんどん浮かび上がってくる。強制的に脳が動かされて、その度に酷い頭痛に襲われる。
最悪な副作用だ。吸血鬼の能力を振るうときの全能感は、全部この頭痛で消え去ってしまう。感情が無理矢理に乱高下させられて、気持ち悪い。
耐え切れずに、路面のコンクリートへ頭を叩きつけた。化け物の膂力で成されたそれは路面に蜘蛛の巣状の罅割れを作る。叩きつけた頭も、水風船が割れるように破裂した。
意識が一瞬だけ飛んで、飛び散った肉片が集まり頭が再生する。すると立ち上がることもままならない程の頭痛は、酷い偏頭痛程度に収まってくれる。鉛のように重たい頭を持ち上げて、何とか立ち上がった。
「……行かないと」
何度も新品に差し変わった脳は信号を受け取るのにも一苦労で、視界がぼやけて仕方が無い。痛みを痛みで上書きするなんて荒療治は、もう少しで「僕」の精神を壊しつくしてもおかしくない拷問だ。
「でも……行かないと……」
うわごとのように何度もそう自分に言い聞かせる。僕自身の命運はもう、致命的な段階まで進行してしまったのだと、否が応でも理解せざるを得なかったから。だからこそ、すぐ目の前に迫るカウントダウンに押しつぶされる前に、僕が壊れ切ってしまう前に。
やらなきゃいけないことが、ある。それすらも、忘れてしまう前に。
意識を束ねて、一歩を踏み出そうとした瞬間───視界の端で、銀色の輝きが瞬いた。
「───!!!」
吸血鬼の驚異的な反射神経が、僕の意志関係なしに作動する。自ら吹き飛ばされるように地面を蹴って後方に飛ぶと、寸でのところで僕の首があった場所に鋭い刃が通過していった。
咄嗟に襲撃者の姿を視界に収めようとするが、襲撃者は巧みな動きで僕の死角に回り込み続け、隙を見つけては的確な刃を差し込んでくる。
「くっ、このぉぉぉぉ!!!」
視界にすら収められないことに焦った僕は、複碗をしならせて周囲を滅茶苦茶に攻撃した。道路わきに止まっていた車やガードレールが、ひしゃげて吹き飛んでいく。
流石にその状況で密着状態を続けることは出来なかったのか、襲撃者は一息にバックステップで距離を取って止まった。それと同時に襲撃者の懐から札のようなものが飛んだかと思うと、ここら一帯を区切るような光の幕を形作った。
「結界……?」
見たことのある魔術。都市結界とは違って、吸血鬼だけを逃がさないためだけの、触れると酷い目に合う結界。完全に相手のペースで進められていることに焦燥感を覚えながら、襲撃者の姿を見て───身体が凍り付いた。
「───刀香?」
「……?何故私の名前を……いえ、まさか……緋彩、なのですか……?」
あの病院の地下で別れた刀香が、僕の目の前に居た。
血で汚れたいつもの制服を身に着けて、信じられないものを見る目で僕のことを見ている。
何故、そんな目で僕のことを見ているのか。何故、勘違いなんかして襲ってきたのか。疑問が頭の中でぐるぐる回る。しかし、彼女が何を見てそんな目をしているのかを理解して、僕は視界を隣にずらす。
そこには、何かのお店のショーウィンドウがあった。そしてそこに反射して写っている自分の姿が目に入る。
「……なに、これ」
そこには、到底人とは言えないような顔が映っていた。
赤く腫れあがった肌に、その上に不規則に並んだ複眼。背中から生えてきたナニカも合わさって、元の容姿なんて欠片も残っていない化け物がそこにいた。
その姿を見た瞬間、またズキンと頭が痛む。足元が覚束なくなって、両手で頭を抱える。知らない声が、知識が、自我を洗い流そうとどんどん押し寄せてくる。
時間が無い。焦燥感が沸々と溢れてくる。自分がもう長くないことは分かってる。その前に、少なくとも鈴を見つけて、安全な場所まで届けなくてはいけないんだ。
刀香は、一言も発さずに僕のことを見ていた。僕は必死に頭痛を耐えて、顔を上げる。
「刀香……ここを通して。僕は、鈴を助けに行かなきゃ……いけないんだ……!」
「…………」
「……刀香?」
刀香は、刀身を震わせて此方を見ていた。驚くほど弱々しいその立ち姿に、僕は困惑する。そのうちに、刀香は自分の周囲へ符を展開した。
「……え?」
「所長が……この先に居る、『吸血鬼』を、足止めしろと言ったんです」
「所長も居るの?だから、それは勘違いで……」
「その姿……本当に、まだ貴方は緋彩なのですか……?」
「そ、それは……」
僕はその質問に、即答できなかった。
記憶すらもあやふやで、姿すらも人とは言えなくなってしまった。それなら、僕を『人』だと保証してくれるものなんて、もうこの世には残っていない。
それに……鈴を助けた後に、記憶すら完全に吸血鬼の者になった僕は、どうなるんだろう。人を、襲うんだろうか。だとしたら、僕はもう、刀香に助けを乞う資格すらないのだ。
「わ、私はもう……分からないんです。何が正しいのか、間違っているのか、なにも……!」
ぶわっと、青色の魔力が刀香を中心にして広がる。か細い声で、焦点の定まらない眼で、震える刀身で……明確な敵意を持って、僕を見る。
「に、逃がしません!貴方は、吸血鬼です!所長が、そう、言ったのですから!」
────────。
刀香の言葉を、僕は自分でも信じられないくらい冷たい思考のままで聞いていた。
僕が、吸血鬼?もう、身体がどうだからだとか、記憶がどうだからだとか、そんなことどうでも良くて、刀香が、僕のことをそう言った。
刀香が、僕のことを吸血鬼と言った。それは今まで必死に自分を人間だと思おうとしていた僕の心の中にすんなりと沁み込んだ。そして浮かんできたのは、慣れ親しんだ『諦念』。
結局、こうなるんだ。全てが真っ白なあの部屋で、何度も繰り返した光景。刀香とは分かり合えないんだっていう、ただそれだけの事実。それが今更、何だというのか。
そう思った瞬間、まるで待ち構えていたように僕の中にいる誰かが囁いた。
「それでも貴方は、鈴を助けに行くんでしょう?」
……うん、そうだよ。
「けれど、目の前の彼女は、逃がしてくれないみたいだけど?」
…………。
「時間、ないんでしょう?」
……うん。
「それで───どうするの?」
嘲る様に、彼女がそう言う。
ドロリと、黒いモノが心を覆った。
赤い魔力が、僕の身体を中心にして嵐のように吹き荒れる。吸血鬼から片っ端から奪った魔力が、その命を散らすように、結界内を紅に染め上げた。
それに比べたら、刀香の青い魔力のなんて小さいことか。僕は、鋭利な犬歯を剥き出しにして、刀香を───目の前の敵を睨んだ。
「邪魔するなら、もう───」
「逃げようとするなら、もう───」
「「許さない!」」




