化け物
どれくらいの時間、彷徨っていたんだろう。
なりふり構わず逃げ出して、あのマンションが見えなくなってからも、何かに追われているように逃げ続けた。時間感覚も消え去って、気付いたらどこかのビルの上に居た。
知らない景色の場所まで来て、ようやく背中に追いすがる恐怖が僅かに薄れて、膝から崩れ落ちる。コンクリートのざらざらした感触が、何処か転生した直後の感覚と似ているような気がした。
空はもう、どんどん暗くなってきている。日が沈み切るのもあと僅かというところまで来ても、どこか寝泊りの出来る場所を探そうという気持ちにはなれない。それくらい、さっきの出来事は僕の心を蝕んている。
あれだけ逃げても、一心不乱に駆けても、数秒前のようにあの光景がフラッシュバックする。鈴の肌の感触と、そして───。
「うっ……ぉえ……」
堪え切れない嘔吐感に、身体を九の字に曲げて吐き出した。べしゃべしゃと胃液だけがコンクリートの床に広がって、酷い匂いが鼻を突く。
鈴の血は、癖になってしまいそうなくらい、どうしようもなく美味しかった。それが怖くて、嫌で、なのに忘れられない。頭がどれだけ否定しても、身体は次を求めているように。
何度も、何度も吐き出す。けれど血は吐き出されることは無いし、そもそも今更吐き出したって何の解決にもならない。それでも、このどうしようもない嫌悪感を身体の内に仕舞って居られなくて、何度も嘔吐した。
気力も体力も尽き果てて、もう吐く気にすらなれなくなった。
頭は鉛みたいに重くて、少しの思考も億劫だった。それでも、滲み出るように一つの言葉だけは浮かんだ。
僕は、化け物だ。
今までは必死に人間のフリをしていたけれど、本質は化け物でしかない。人間だった頃の記憶に縋って人間で居ようとしても、自分の本質からだけは逃げられない。
結界外調査から帰ってきた時の、一度目の暴走の時は、まだ自分が人間だと思えた。あの時は自力で踏みとどまることはできたから。でも、今回はどうしようもない。
あの時鈴に突き飛ばされていなければ、僕はそのまま鈴を吸い殺してしまっていた。むしろ、突き飛ばされただけで正気に戻れたのは奇跡でしかないくらいだ。
だから、『魅了』を使って誤魔化すなんて考えはすぐに消えた。そんなことで先延ばしにしたら、今度こそは……僕は、鈴を殺してしまう。
だからもう、戻れない。鈴とはもう、暮らせない。
僕は、『桐生×××』では居られない。
「う、あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」
どれだけ泣いても、あの場所には帰られない。
冷たいコンクリートの床に、ずっと足を抱えて座り込んでいる。
冷たくなってきた風が肌を撫でても、僕はずっとそのままで居た。化け物なら、凍死することもない。そう思うと、途端に肌寒さも不快に感じなくなった。
食欲も、睡眠欲も、同じようにどんどん薄れていった。自分があんなに引っ張られていた色んな欲が消えていくたびに、僕という存在が記憶の残滓でしかないことを思い知らされる。
身体が石になったみたいだったけれど、化け物として生き生きしているよりはましだと思う。どこかに消えてしまいたい気分だったけれど、やっぱり行く当ても動く勇気も無かった。
無言で、風の流れる音だけを聞き続ける。そうして───
天を衝くような巨大な破壊音がした。
驚いて、跳ね上がるように顔を上げる。数秒遅れて軽い地震が起き、慌てて立ち上がると、屋上の柵まで駆け寄って音源の方を見た。その正体を理解して……僕は、呆然と呟くしかなかった。
「うそ……」
建造物よりも巨大な二足歩行の狼が、破壊を巻き起こしている。
いつぞやにも見た、あの怪物。けれど、あの時と違って───数えきれないほどの群れが、街のあらゆる場所で暴れていた。
今更になって赤い警告灯が一斉に輝きだす。それに負けないくらい、街のあらゆる場所から炎の柱が立ち上って、夜の街が照らされる。
街が、赤く染まっていく。背筋にぞわりと冷たいものを感じて、空を見上げると───そこはもう、悍ましい量の蝙蝠によって埋められていた。
地下の研究室で緋彩と別れてしまったあと、所長の元に向かうため装甲車に乗り込んで基地に戻っていた。
どうにも様子のおかしかった彼女は気がかりだが、今一番優先順位が高いのは所長との合流。当然の選択の筈なのに、僅かな迷いが断ち切れない。
……緋彩とはまだ付き合いが短い筈なのに、自分にとって、彼女の存在が大きなものに変わってきていることは否定しきれない。それが良いことなのか悪いことなのかまでは、判断出来ないまま。
少し前までは、私は所長の剣そのものでありたかった。自分で考えることなく、主人の為にその銀の刃を振るう一振りの剣。けれど彼女に会ってから、それも変わってきている気がする。
所長に初めて秘め事をしたことが代表例だろう。所長を絶対的な最優先にするなら、僅かでも所長に損がありそうなことはひとつだって許せない筈だ。昔の自分は実際にそうだった。
こんな風に惑わされている時点で、所長の剣としてはきっと「悪いこと」なのだろう。だが、私にとってはどうなんだろうか。
……『私にとって』。そんなこと、一度も考えたこともなかったのに。
装甲車が止まる。運転手に一言礼をして、早足に基地内へ向かう。本当なら身体強化全力で所長室へ駆け出したいほどだったが、所長の部下として、そんな粗相はできない。
獅現も目的地は同じはずだが、今は何処にいるのだろう。そこまで大きく足止めをされたわけではないので、大きく遅れているわけではない筈なのだけれど。
棟内に入ると、幾度も通った廊下が目に入る。けれど何処か違和感を感じて、ピタリと足を止めた。
周囲を注意深く観察して、違和感の正体に気付く。いつもならここで他の隊員に挨拶されたりするのだが、何故か誰一人として人影が無い。
任務に出ている隊員達はまだしも、受付を担当している職員も含めて、全員だ。まだ暗い時間でもないのに、不気味な静寂が棟内を埋めている。
嫌な予感がして、人目が無いから外聞を気にせずに廊下を駆け出した。ただの偶然だろうと頭の大部分では思っていたけれど、どれだけ棟内を進んでも、やはり人影が一つも見当たらない。
所長室は上階だ。心臓が激しく鼓動しだすのを感じながら、階段を駆け上がる。そして───。
「こ、れは……?」
血の匂い、死の香り。
上階は、見渡す限り大量の死体が転がっていた。
服装からして、隊員達で間違いない。魔力を持った戦闘員である筈の彼らが、そこら中に数えきれないほどの屍を晒していた。
有り得ない、と思う。共に吸血鬼を狩ることもあるからこそ、彼らの精強さはよく知っている。だからこそ、この目の前の光景を信じられない。こんなに容易く、失われるような命ではないのだ。
凄惨な場に慣れている私でも吐き気を催すようなそこに踏み入って、真近くで死体の一つを見る。見覚えのある顔だ。死因は一目瞭然で、巨大な刃による一刀。
どうしようもなく、表情が歪む。この中に、見覚えのある顔がいったい幾つあるのか、考えたくも無かった。死の匂いに引きずられそうになる感覚を振り切り、その地獄を掻き分けて前に進んでいく。
死人が動いて、足首を掴まれたような錯覚が何度も襲い掛かる。それでも足を止めずに前に進んだのは、ひとえに所長の身を案じてのことだ。
それこそ有り得ないと思うが、この死体の中に所長の姿が混ざっているかもしれない。今にでも危機に晒されているかもしれない。だとしたら、足を止めるわけにはいかない。どれだけ、顔見知りの死体を踏みにじろうとも。
そして、所長室のドアが目に入る。血で汚れたそれに悲鳴を上げそうになり、押し殺してドアを開けた。
「所長、ご無事で───」
言葉が止まる。
青崎所長は、確かに生きてそこに居た。息をして、自分の足で立ち、目に光を灯して。そして───隊員のひとりに、血で濡れた刀を振るいながら。
「……え?」
呆然と呟いた私の前で、また一人隊員が悲鳴を上げて死んだ。知っている顔だった。入りたての、まだ私が尖っていた頃に、それでも優しく接してくれた先輩だった。
それが、目から光を失って床に伏す。それをどうでも良さそうに見送った青崎所長は、私の方に顔を向けると、いつものような笑みを浮かべて嬉しそうに言った。
「ああ、刀香。帰ってきたのか。丁度良かったな」
どこまでも、変わらず、いつも通りに。
大切から逃げ出すまで。終
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